著者は、「世界の3大イデオロギーはリベラリズム、ファシズム、マルクス主義である」とし、「リベラリズムはファシズムよりもマルクス主義よりも大きな成功を収めてきたが、他の2つのイデオロギーと同じく、最終的にはうまくいくことはない」とする。
なぜならリベラリズムは、それが前提とする人間観(ヒューマンネイチャー)そのものが誤っているからだという。
リベラリズムは人間を自然とのつながり、特定の時(歴史)や場所(風土)とのつながりから切り離し、抽象的、個人主義的、普遍的存在として認識している。それは典型的には社会契約論において示されている。
社会契約論における人間は、生まれながらにして自由な個人である。個人の同意に基づいて、社会、国家が制度設計される。その目的は個人の権利を保障し、個人の自由を最大限に実現することだ。しかし著者は「そのような人間観は間違っている」と断じる。
反・文化としてのリベラリズム
著者によれば、リベラリズムは「反文化」である。文化とはここでは、非法律的、非政治的でインフォーマルな社会的慣習、規範、人々の教養などを指す。社会は法律以前に、慣習や社会的規範、宗教といったインフォーマルな秩序で成り立っているとみる。
近代以前のヨーロッパで「自由(liberty)」というとき、それはギリシャ的な意味でのセルフガバナンス(自己統治)の確立を意味していた。つまり自由とは、リベラルアーツ(教養教育)を学び、人格を陶冶し、徳(virtue)を身につけて、低レベルの悪しき欲望にとらわれない、自律的個人としての自己を完成させることを意味した。
それが共同体の統治にもつながる。一人ひとりの個人がシビック・バーチュー(市民としての徳)を身につけたうえで、共同体の共通善を追求し、共同体の統治を自ら行っていく。ここでも自由とは「自分たちの社会は自分たちで統治していく」という自己統治の自由を意味する。
ヨーロッパの教育でリベラルアーツが重視されてきたのは、そのためである。教育の目的は古典文学などの文化に触れさせることによって人格を陶冶し、若者を、個人としても共同体を担う市民としても自己統治できる存在に育て上げることにあった。
しかしルネサンス以降、リベラリズムというイデオロギーが出現してから、自由の意味は「人格を陶冶し、欲望を抑制し、自己統治すること」ではなく、「欲望充足への制約をなくしていくこと」へと変質してしまった。
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