「落研でもやっていたので、入門した頃から新作落語をしたいと思っていました。東京で言えば三遊亭円丈師匠が革新的な、誰も考えられなかった落語をつくり始めた。
でも円丈師匠も(古典落語の大家の)六代目三遊亭圓生師匠のもとで古典の修業してきたわけで。だから僕も古典落語のさん喬に入門しました。
円丈師匠の時代は“古典こそ邪道だ”なんてキャッチを掲げて世間と戦ってきた。そのあとの僕らは恵まれてもいるんです。
でもバッシングは受けましたね。二つ目のころに言われました。“なんでお前なんかがさん喬の弟子なんだ”って。“私たちの大好きなさん喬さんになんであんたみたいな弟子が入ったの”みたいな空気、すごいありましたもん」
「古典」の世界に、突然「現代」がやってくる
喬太郎の「新作魂」は、古典落語を演じているときでも弾けるときがある。古典落語の登場人物が、突如、現代の喬太郎本人になって「時間が押している」だの「場違いな噺を始めてしまった」だのと口走る。これがまた受けるのだ。
「寄席のお客様でも、落語ファンばかりじゃないですよね。“今日はわかりやすい噺で明るく笑いたがってるお客さんだな”っていうのと、“今日は弾けた笑いはしないけど、じっくり聴くタイプのお客さんだな”っていうのはあるんです。それに合わせて、演出をします。
古典のなかで現代を入れるときって、いわゆるだれ場みたいなところで、それによって笑いがとれるのであれば“まあそれでいいや、俺の方法だから”と思います。ふっと笑ってまたスッと噺に戻れるんだったら、演出としてありかなと思いますね。やりすぎて、師匠にお小言を食らったこともありますけどね」
客席は、柳家喬太郎の古典落語に聴き入りながらも「いつ現代をぶっこんでくるのか」、待ち受けるようになる。そういう期待感も喬太郎ならではだ。
古典芸能の演目は、ときとして傑出した先人が、とんでもない高みにまで芸の水準を引き上げてしまうことがある。
江戸末期に講談から落語に移し替えられた「井戸の茶碗」は、五代目古今亭志ん生、三代目古今亭志ん朝、五代目春風亭柳朝、そして喬太郎の師匠の柳家さん喬などの名演によって、古典の名作に磨き上げられた。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら