筆者は35年ほど前、神戸で三代目古今亭志ん朝の「井戸の茶碗」の熱演に接した。舞台袖で見ていると、志ん朝の名演に酔いしれた観衆は、噺家が高座を降りてもしばらく席を立てなかった。
もともとが爽やかな噺だ。浪人だが武士の魂を失わない易者千代田卜斎、細川藩江戸勤番の快活な若侍高木佐久左衛門、「正直清兵衛」とあだ名される実直な屑屋の清兵衛。1体の古仏をめぐって易者卜斎と若侍佐久左衛門の縁が深まるという噺。邪な心の人物は誰も出てこないし、筋立ても鮮やかなのだ。
柳家喬太郎は、この「井戸の茶碗」の当代の名手としても知られる。筆者もそう思う。
「入門段階でうちの師匠の噺でいちばん好きだったのが、『棒鱈』と『井戸の茶碗』なんですね。『井戸の茶碗』は、他の師匠方のも素晴らしいんですが、うちの師匠の『井戸の茶碗』が好きで。だから僕のはさん喬の型ですよ。
とくに若侍の爽やかさとか、いい人ばっかりの話じゃないですか。滑稽味もあって。習った頃は40何分かあったんですが、噺ってやっていくうちに、いろいろそぎ落とされていく、で、テンポが出てくる。今はたぶん30分くらい」
話芸の洗練と新作派の色気
最近の喬太郎の「井戸の茶碗」では、後半部分では高木佐久左衛門は、ろくにセリフを言わなくなって単語だけを叫んでいたりする。それでも噺の爽やかさはそこなわれない。また、屑屋の清兵衛が一癖あるかのような人物になっているときもある。
「井戸の茶碗」の評判がよくて、どこでも「井戸の茶碗を」と所望されているうちに、噺もこなれてきて、シンプルなものになっているのだ。これも話芸の洗練だ。
しかし新作派の色気が時折、頭を持ち上げる。TBSの番組「落語研究会」のスピンアウト公演では、「歌う井戸の茶碗」という怪作も演じている。昭和中期に何度も映画になった「歌う狸御殿」よろしく「井戸の茶碗」の登場人物が、突如自分の心情をアリアのように歌いあげるというものだ。
これも喬太郎の「井戸の茶碗」のバリエーションではあるが、初心者各位には普通の「井戸の茶碗」から入るほうがいいとアドバイスしておこう。
明治期に三遊亭圓朝という大名人が出て、古典の名演を数々残したうえに「文七元結」「鰍沢」「塩原多助一代記」「死神」など数々の新作落語を作った。圓朝は日本の口語文学の創始者の一人とさえ言われる。なかでも「牡丹燈籠」「真景累ヶ淵」などは、今も怪談噺のスタンダードとして、現代人の恐怖心を揺さぶっている。柳家喬太郎はこれら圓朝ものの怪談噺も得意にしている。
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