上田さんの「卒業」発表後、多くのラーメンファンや常連が「麺家 うえだ」を訪れ、皆口々にねぎらいの言葉をかけた。そんな上田さんの20年間のラーメン人生は実に波瀾に富んだものだった。
27歳までインテリアデザイナーとして働いていたが、女手ひとつで息子を育てるために31歳で飲食業の道に踏み出す。
コーヒー専門店から始まり、焼き鳥屋、居酒屋、焼き肉屋と、25年の間で4店舗を経営した。ホールはアルバイトに任せられるが、厨房で味を守るのは自分だと、お店を立ち上げるたびに修業をし、数々の料理を覚えた。とにかく子育てのためにがむしゃらに突き進んだ25年間だった。
ラーメン店を始めたきっかけ
息子が結婚をしたことをきっかけに、自身の経営を見直す。なかなか信頼のできる部下に恵まれず、人を雇用するということ自体にも疑問が湧いてきていた。人に頼ることなく全工程を1人で完結できる飲食業はないものか、上田さんは考えた。
そこで行き着いたのがラーメンだった。上田さんは経営している店を整理し始め、同時にラーメン店のテナント契約をした。すでにそのとき上田さんは56歳になっていた。
焼肉店で培ったノウハウを応用し、牛骨でスープをとってラーメンを作った。家ではおいしく作れるものの、店の大きな寸胴ではなかなかうまくできない。結局2カ月お店は開けられなかった。
ようやくラーメンを完成させた上田さんは、1999年6月に埼玉・志木に「鬼火山」をオープンした。評判は上々。オープン当初から話題となり、ラーメン評論家やテレビの取材も入った。
しかし、開店から2年、2001年に突然悲劇が訪れる。狂牛病(BSE)問題だ。ラーメンに“牛骨”を使っていたため、すぐにすべての雑誌の掲載がアウトになり、テレビの取材が来てもBSEについてのコメントを求められるばかりだった。
数々のメディアの報道の影響で、上田さんのお店は世間からBSE発症地のように見られるようになった。お客さんはみるみる減り、売り上げも地に落ちた。「夜寝たらこのまま朝が来なければいいのに」と何度も思ったという。
家も売り、父と息子に援助してもらうことで何とか店は存続できそうだったが、牛骨をやめ、違うスープのラーメンに変えることを余儀なくされた。「スープを変えます」という貼り紙を貼るところまで撮らせてくれとテレビ局のカメラに追い回された。
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