「もう年だから」の一言が「ダメ!絶対」な理由 86歳、料理研究家「棚ぼた人生」の秘訣とは
この先、何が起こるかわからない。男は積極的に料理や家事をやったほうがいいし、奥さんは夫にそれをやらせないといけない。どこで役に立つかわからないから、やっておいて損はない。それは俺が保証する。
「食う」ことに必死だった子供時代
あと、子供時代の経験は大きかった。
俺は1933(昭和8)年、当時日本の統治領だった樺太で7人兄弟の長男として生まれた。終戦は13歳のとき。当時住んでいた川上村(現ロシア極東連邦管区サハリン州ユジノサハリンスク市シネゴルスク)にも、ロシアの軍隊が入ってきた。ドドーン、ドドーンっていう、ものすごい音がしていた。
「殺されたり、恥をかかされるくらいなら、みんなで一緒に死のう」親父が家族を集めて、手榴弾を握りしめ、そう言ったのを覚えている。当時はロシア兵に見つかったら殺される、という噂が飛び交っていた。
「今日親父がピンを抜くかもしれない」と思いながら毎日を過ごすというのは、何とも言えない体験だった。それである意味、肝が据わったのかもしれないが。
ロシアでの3年間は、とにかく貧乏だった。小学校6年生までは日本統治で学校に通っていたが、学校なんて行くどころではなかった。とにかく腹が減っていて、頭から食べ物のことが離れなかった。
弟は空腹で倒れて、そのまま歩けなくなってしまった。そのとき、空腹がどんなに恐ろしいことかがよくわかった。
終戦後は家族で北海道に引き揚げて、19歳で三井炭鉱の工業学校を卒業、20歳で入鉱した。親父が炭鉱で機械の修理工をしていたから、自然の成り行きだった。ほかにやりたいことがあったけど、俺は長男だったし「選ぶことができなかった」といったほうが正しいかもしれない。
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