個室が与えられるのは原則として関取(十両)に昇進してからと決まっていて、それまでは全員、昼も夜も同じ部屋で過ごす。プライベートはほぼない。しかし、入門したての弟子にとって、最も大きなハードルはほかにあると親方は言う。
「入門したての弟子が最初にぶちあたる壁は“雰囲気”だろうね。みんな最初は雰囲気に気圧されて、ぼーっと立ったまま動けない。兄弟子も親方も、すべてが怖く見えるんだよ」
一点をじっと見据えて話す武蔵川親方。自身もまた、かつて新弟子として、同じ雰囲気に圧倒され、立ちすくんだ一人なのだろう。
「だけど慣れるしかない。怖がってばかりいても仕方ない。ここでの生活はすべて、相撲が強くなるために必要なことなんだよ。一人の部屋が欲しいなら1日も早く強くなって、関取になるしかない。上下関係がいくら厳しくても、土俵の上ではみんな平等、強いことがすべて。厳しい兄弟子にぶつかっていかなきゃならない」
生活のすべては、相撲が強くなることに通じている
日常の中で絶えず試されながら技を磨いていく力士たち。自ら望んだこととはいえ、時には挫折しそうになることもある。そんなときクッションとなるのが、ほかならぬおかみさんの存在だ。
「親方のところに“お話があります”とやってくるときは、もうかなり心を決めているときなんです。だから、なるべくそうなる前に悩みに気づいて、どうしたの、と話を聞き出すようにしています」
武蔵川親方が引き取る。
「親御さんたちから大事な子どもを預かっているわけだから、簡単に諦めさせるわけにはいかないよね。辞めたいと言いにきたら、まずは止めて、きちんと話を聞く。……だけど、だいたい悩み事を抱えてるな、様子がおかしいなっていうのは、わざわざ言いにこなくたってこっちはとっくにわかってるんだよ。何しろ俺は毎日同じところから稽古を見てるんだからね」
生活のすべては、相撲が強くなることに通じている。だからこそ、相撲を通して、生活が見える。毎日、定位置から稽古中の弟子たちを見守る親方。逃げも隠れもできない真っ平らな土俵の上で、若き弟子たちが親方の鋭い目を欺くことはできない。悩みも、苦しみも、すべてお見通しなのだ。
……それにしたって、実の親でさえわが子を日々、これほど長時間観察し続けることは容易ではないだろう。思わずそう漏らすと、親方はにやりと笑って言った。
「だから、さっきから言ってるでしょ。生活のすべては、相撲が強くなることにつながってるの。観察だってそう。相撲で勝つためには、目の前の相手をよく見て、今日は調子がいいのか悪いのか、見極めるしかない。俺が今やってることだって結局は全部、俺自身が、相撲を通じて学んできたことだよ」
現役時代、日常生活のすべてを通じて磨き上げられた武蔵川親方の相撲。名だたるライバルたちを前に発揮されたあの強さは今、恐れと戦いながら土俵に立つ未来の横綱たちに向けて、土俵の外側から、日々惜しみなく注がれている。
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