東芝の車谷会長兼CEOに就任1年で見えた光景 「偉い人」を輩出してきた巨艦はどこへ向かう

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では、2018年4月、会長兼CEOに就任し、東芝の再生を担うことになった車谷暢昭氏も「偉い人」になりたいのか。どう見ても賢そうに見える車谷氏にインタビューし、その素顔を探ってみた(経営戦略についても質問したが、『週刊東洋経済』「東洋経済オンライン」で、すでに詳述されているので、本インタビューで得た「車谷氏の経営哲学」に関する発言を中心に紹介する)。

小山五郎さんの教えを守る格好で不器用にやってきた

車谷氏は1957年、愛媛県新居浜市生まれ。10歳のときに大阪府茨木市へ転居し、地元の小学校、中学校、高校で学ぶ。パナソニックの津賀一宏社長は高校(茨木高校)の1年先輩に当たる。本人は「エリート教育を受けてきたわけでもなく、神童でもありませんでした」と謙遜する。

「小学校、中学校時代は全然勉強ができなくてビリのほうでした。中学生のときは、よく立たされていました。勉強はさっぱりでしたが手先が器用だったので、父は『京都の料理屋に修業に出す』と言っていました。母も進学するよりも、そのほうがずっと素敵だと思っていたようです。もっとも、その道に進んでいたら、今頃、有名なシェフ(料理長)になっていたかもしれません(笑)。受験を意識し始めてから勉強するようになった程度です」

とはいえ、1976年、東京大学に現役合格。経済学部に進み財政金融論を専攻した。受験期を迎えてから初めて本格的に勉強を始め、東大に現役合格してしまうのだから、やはり、目標が定まれば、それを突破するために集中する力は高いといえよう。

東大卒業後、三井銀行(現・三井住友銀行)に入行し、企画畑を長く歩む。1994年から3年間、「三井の重鎮」として知られる小山五郎元会長の秘書を務め、幅広い人脈を築いた。では、社会人になってからは、賢く振る舞ってきたのだろうか。

「手先は器用だったのですが、サラリーマンとしては不器用なほうだったと思います。要領が悪く、大きなリスクがあっても、進んで取り組んでしまう。『バカじゃないか』と言われたことも少なくありません。

このようなとき、小山五郎さんの秘書を務めていた頃に聞いた言葉を思い出したのです。『君の力が役に立つと思われ望まれているのであれば、自分がやりたいか否かではなく、その仕事に一生懸命取り組みなさい』。この教えを守る格好で不器用にやってきただけなんです」

日本初のインターネット専業バンクのビジネスモデル、コンビニのATMを発案する一方、常務だった2011年には、福島第一原発事故で窮地に陥った東京電力を救うスキームを作成。副頭取まで昇進し、頭取候補として名前が挙がっていたが、2017年5月、欧州最大のプライベートエクイティーファンドである英CVCキャピタル・パートナーズの日本法人代表取締役会長に転身。

2018年2月、経営危機にあった東芝の取締役会指名委員会から代表執行役会長兼最高経営責任者(CEO)の指名を受ける。車谷氏にとっては晴天の霹靂であった。土光氏以来、半世紀ぶりに外から東芝へやってきた経営者である。

ともあれ、前述したとおり、経営者の評価は死ぬまで定まらないものだ。だが、唯一言えることは、東芝のトップを務めた人だけでなく、いま世の中を騒がしている経営者には、「賢い(と言われた)人」が多い。なぜ、そんなに「賢い(と言われた)経営者」が大きな失敗を犯すのか。

車谷氏は躊躇なく答えた。

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