令和日本は「海」と「陸」のどちらを志向するのか 国運の潮目は「海洋的」か「島国的」かで変わる
無関係に見える事柄の間に共通点を発見する
『街場の天皇論』という本に、「海民と天皇」という書き下ろし論考を「特別篇」として収録した。さしたる史料的な根拠のない、妄想に類する思弁であるが、私がこの話をなかなかやめられないのは、これまで誰からも効果的な反論を受けたことがないからである。
どの分野の人と話しても、話をすると「なるほどね。そういうことってあるかもしれない(笑)」でにこやかに終わり、「ふざけたことを言うな」と気色ばむ人にはまだ出会ったことがない。もちろん堅気の歴史学者や宗教学者は「まともに取り合うだけ時間の無駄」だと思って静かにスルーされているのかもしれないが。
とはいえ、一般論として申し上げるならば、思弁、必ずしも軽んずべきではない。フロイトの『快感原則の彼岸』は20世紀で最も引用されたテクストの1つだが、そこで「反復強迫」についての記述を始めるときに、フロイトは「次に述べることは思弁である」と断り書きをしている。
フロイトの場合は、1つのアイディアを、それがどれほど反社会的・非常識的な結論を導き出すとしても、最後まで論理的に突き詰めてみる構えのことを「思弁」と呼んだのであるが、私の場合の思弁はそれとは違う。私の思弁は一見するとまったく無関係に見える事柄の間に何らかの共通点を発見してしまうことである。そういう学術的方法を意図的に採用しているわけではなくて、気が付くと「発見してしまう」のである。「あ、これって、あれじゃない」。
数学者のポアンカレによると、洞察とは「長いあいだ知られてはいたが、たがいに無関係であると考えられていた他の事実とのあいだに、思ってもみなかった共通点をわれわれに示してくれる」働きのことだそうである。そして、二つの事実が無関係であればあるほど、その洞察のもたらす知的果実は豊かなものになるという(アントニオ・R・ダマシオ、『デカルトの誤り』、田中三彦訳、ちくま学芸文庫、2010年、293頁)。
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