令和日本は「海」と「陸」のどちらを志向するのか 国運の潮目は「海洋的」か「島国的」かで変わる
私の「海民と天皇」というのも、遠く離れたところから引っ張ってきた、相互にまったく無関係に見えるものを私が直感的に関連づけたものである。「これって、あれ?」的直感で関連づけられた事項がずらずらと羅列されているだけで何の体系的記述もなしていない。けれども、そうやって羅列されたリストをじっと見ていると、そこにある種のパターンの反復が見えてくる。少なくとも私には見える。以下、それについて書きたいと思う。
「海部」と「飼部」
私に最初の「これって、あれ?」的直感をもたらしたのは梅原猛の『海人と天皇』という本である。その中に『魏志倭人伝』についてこんなことが書かれていた。
「中国から見た倭は、たしかに文身(いれずみ)をし、その王は女性でシャーマンである―─、それは文明国、中国から見れば野蛮の国の象徴である」(梅原猛、『海人と天皇 日本とは何か(上)』、朝日文庫、2011年、92頁)。
高校の日本史の教科書にでも書いてありそうな何ということもない一文だが、その「文身」のところに注がついていた。たまたまそこを見ると、そこにはこう書かれていた。少し長いがそのまま引く。
「イレズミについて、『日本書紀』履中天皇の条に次のような記述がある。『即日(そのひ)に黥(めさききざ)む。此に因りて、時人(ときのひと)、阿曇目(あづみめ)と曰ふ』(元年四月)。『是より先に、飼部(うまかひべ)の黥(いれずみ)、皆差(みない)えず』(五年九月)。『黥(げい)』とは眼の縁のイレズミ。『阿曇目』から海部(あまべ)の風習、『飼部』から職能の民の風習が想像される。『眼の縁のイレズミ』は日本独特のものといわれる。『目』のもつ魔力をより強化するための呪術的作法であろう。海部は航海術を、飼部は馬術をもって天皇に仕えた。黥の記述は『神武紀』にも見える」(同書、110頁、強調は筆者)。
文身や黥刑(げいけい)や阿曇氏のことはとりあえず脇においておく。私が目を見開いたのは「海部は航海術を、飼部は馬術をもって天皇に仕えた」という一文であった。そうか、そうだったのか。なるほど、これですべてがつながったと私は感動に震えたことを覚えている。もちろん、こんな説明では皆さんには何もわからないだろう。いったい何がどうつながったのか、その話をこれからする。
古代から中世にかけて、ある種の特異な職能をもつ部民たちは天皇に仕えて、その保護を受けていた。馬飼部(うまかいべ)、犬飼部(いぬかいべ)、鳥飼部(とりかいべ)などはその名から動物の飼育担当だったことがわかるし、錦織部(にしごりべ)、麻績部(おみべ)は織物の、土師部(はじべ)、須恵部(すえべ)は埴輪や土器の作成に関わったことが知れる。同じように、海部(あまべ)はもともと潜水と漁を特技とし、海産物を「贄(にえ)」として天皇・朝廷に貢納した職能民であった。海部について少しだけ解説しておく。
『古事記』には伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)二神が「国生み」によって大八島ほかの島々を生んだとある。一通り生み終えたのちに、「海神(わたのかみ)、名は大綿津見神(おおわたつみのかみ)を生みまし」とある。これが海神という名詞の初出である。
その後、伊邪那岐が黄泉国(よもつくに)から戻って、筑紫の日向(ひむか)の橘小門(たちばなのをど)の阿波岐原(あはぎはら)で禊ぎ祓いしたときにも多くの神々が生まれるが、その中に、底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)、中津綿津見神(なかつわたつみのかみ)、上津綿津見神(うわつわたつみのかみ)の三柱の名がある。「此の三柱は、阿曇連(あづみのむらじ)が祖神(おやがみ)といつく神なり」とされている。これが海民の祖神である。
永留久恵によれば、「このワタツミ三神を伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の禊祓(みそぎはらい)によって生じた神としたのは、海神を倭王朝の王権神話のなかに取り込んだもので、それは王権が成立した以後の作である。すなわち海神を祖(おや)とする部族が倭王朝に服属したことにより、その祖神伝承を王権神話の系譜に組み入れたもの」である(『海童と天童』、大和書房、2001年、92─93頁、強調は筆者)。
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