「おいしいでしょ。温泉の噴気にはミネラルが豊富だから、普通に蒸すよりおいしくなるんだよ。卵なら一晩蒸すといいよ。風味と塩気がより濃くなってうまいんだよ、これが」
夢中で食べていると、通りがかった男性の泊まり客が教えてくれた。なんでもこちらの温泉の泉質によって、噴気にさらされた食材は絶妙な塩梅で塩気を帯びるのだそうだ。ここにはよく来るんですか、と尋ねると男性はうなずく。
「県内に住んでるから、ほんとは家でも温泉に入れるの。でもここが気に入っちゃってね、年に数回は来てる。静かだし、自炊できるし、仕事だってはかどるよ」
けれども、男性の言葉にはこちらの方言やアクセントにまったく訛(なま)りがない点を不思議に思っていると、すぐにその理由が判明した。
「もともとは俺も長いこと東京に住んでたんだけど、とくに震災以降、東京の生活がどんどん合わなくなってね。最後は体調を崩して、仕方がないから3年前に、地元の大分に戻ってきたの。こっちに来たら、体調もすぐによくなった。そういう人、この辺には結構多いよ。東京にいるとさ、色々キリがないじゃない?」
男性が困ったように笑いながら言った「キリがない」は、漠然としているけれど、とてもよく分かる気がした。
毎日、景色の移ろいを眺めたり、旅人を迎え入れたり、自然が可能にするシンプルな料理を味わったり。今回別府の地でMや、この男性の暮らしの一端に触れたことで、どうしてもいろいろなことを考えさせられた。
「拠り所のない気持ち」の正体
伝統やしきたり、田舎や、田舎特有の地域とのつながりといったものを私自身は、長らく意図的に避けてきた。実家を離れ東京に出てきたのも、引っ越しを何度となく繰り返してきたのも、長く1カ所にとどまると、みるみる何かにとらわれ、動けなくなりそうな気がしたからだ。都会のように人の多い場所でなければ、誰かの視線を逃れて、気楽に暮らせないような気がしたからだ。
この選択が間違っていたとは思わないが、そろそろまたどこかに逃げ出したい、けれどももうこれ以上逃げる場所はあっただろうかと、途方に暮れるよりほかないというような、そんな気持ちになるときがある。
今回の旅で結局、ひとつもお土産らしいお土産をを買わなかった。なぜならお土産屋さんで売られているほとんどのものが、欲しいと思えば東京ですぐに手に入るからだ。だけどそんなふうに、何でも手に入り何にも縛られない便利な暮らしの中で、気づけば自分の居場所を見失いそうになってしまう。
もしかしたらもう、飽きることにも飽きつつあるのかもしれない。ふと、そんなことを考えた。何度も住まいを変えたり、毎日、昨日とは違ういろんな国のご飯を食べたり、数時間おきにインターネットで新しい情報を取りに行ったり。見えない何かに急かされるように、飽きては手放し、これではない、ここではないと、より新しく刺激の強いものを求め続けるキリのない暮らしそのものに、いよいよ、飽きてしまいつつあるのかもしれない。
きっと他人には見せないだけで、当然Mの中には、立場に付随したさまざまな重責や葛藤もあるだろう。けれども身勝手な友人からは、少なくともこの自然豊かな土地で、家や伝統といった、自分を強力に1カ所にとめ置いてくれる環境を持つMが、どこかうらやましくも感じられたのだった。
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