「東京暮らしをやめた人」に感じる羨望の正体 別府"地獄蒸し"の向こうに見た人生の岐路

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事前に待ち合わせた店を訪ねると、Mが待っていてくれた。

「変わってないねえ」

思わず言うと、Mも私に同じ言葉を返してきて、顔を見合わせて笑った。

最後に会ったのはちょうど10年前。当時、彼女は都内のデザイン会社で働いていて、私は子育て中の専業主婦だった。会わない10年の間に、Mは結婚し仕事を辞め、私は離婚して仕事を始めた。状況はいろいろと変わっても、お互い本質的なところはそう大きく変わらない。変われないのかもしれない。

「こっちの生活はどう?」

私が尋ねるとMは言う。

「別府はいいところだよ。人もいいし、自然も豊かだし。毎日少しずつ景色が変わっていくから飽きないんだよ。それに、自分がどこかに行かなくても、遠くからこうしていろんな人が来てくれるから、毎日楽しいよ」

おっとりとした中にも、確かな芯の強さを感じさせるM。思えばMは昔からこの強さでもって目の前のものと根気強く向き合い、多くの人が見逃してしまいそうなわずかな変化や一瞬の美しさを、捉えることのできる人物だった。

Mに気づいた店の人が帰りしな、私たちにプリンをサービスしてくれた。その様子を見て、あらためてMは、この地の人になったのだなと思う。それも普通とは違う、特別な「家」を背負って。

鉄輪温泉地区の“地獄蒸し”

今回の旅行で私は、鉄輪温泉地区にある湯治の宿を予約していた。湯治と言っても1泊2日という短い滞在だが、何しろこの宿にはとっておきの決め手があった。温泉や炊事場に加えて、“地獄蒸し”のための石造りの蒸し窯、その名も“地獄釜”が設置されているのだ。

地獄蒸しというのは、この地域に江戸時代から伝わる伝統料理で、野菜や卵、肉や魚を、高温の温泉の噴気で急速に蒸し上げる調理法だ。専用の“地獄釜”は石造りの腰くらいの高さのもので、上部に複数の穴が開けられている。

穴の一つひとつに温泉の蒸気を送り込む管が通されており、調理時には穴の中を高温の蒸気で充満させるのだ。今回泊まった宿では、中庭に設置されているこの地獄釜を、宿泊者なら24時間いつでも自由に利用できる。

そこで私はチェックイン後、早々にやってみることにした。近くの商店で買ってきた野菜を自炊場で適当な大きさに切って、備え置かれたザルに並べる。

それをざるごと石窯の中に入れ、窯の口を木製の四角いふたでふさぐと、釜下にある蒸気のバルブを全開にひねる。すると、直後にふたの隙間の四方からも、プシューっと白い煙が噴き出してくる。周囲に、一層強い硫黄の香りが立ち込める。

そのまま待つこと20分。仕上がりを食べてみて驚いた。キャベツも、しめじも、じゃがいもも、それぞれの味がいつもより格段に濃い。調味料を何もつけなくても感じられる甘みや旨みに、つい次々と伸びる手が止まらなくなる。ただの野菜を、これほどおいしいと思ったのはいつ以来だろう。

次ページ食材は絶妙な塩梅で塩気を帯びるのだそう
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