育成選手制度は、「コスト削減」の道具か? アマでもプロでもない野球選手たち
涌井と投げ合った、伝説のピッチング
山室公志郎という野球選手を知っているだろうか。
今もってなお、横浜スタジアムを満員にするほどの動員力を誇る神奈川の高校野球。その神奈川で、彼ほど高校野球ファンを”ときめかせた”ピッチャーはいなかったかもしれない。なぜなら山室が見せた伝説のピッチングは、わずか7000人ほどの観客だけが目撃したに過ぎないからだ。
2004年4月29日、『ドカベン・スタジアム』の愛称で知られる神奈川の大和引地台球場。この日の山村は、球場正面に建てられた山田太郎と里中智のブロンズ像がビックリするほどの鮮やかなピッチングを披露したのである。
春季大会の準々決勝、横浜高校対桐光学園高校の一戦。
この試合、両校のエース同士は緊迫した投げ合いを続けていた。横浜のエースはのちに西武ライオンズに入団する、当時3年生の涌井秀章、そして桐光学園のエースが2年生の山室。この試合、山室はキレのいいストレートとインサイドを突く見事なコントロールで、強打の横浜打線をほぼ完璧に封じ込めた。
打たれたヒットはたったの2本、しかしそのうちの1本がタイムリー二塁打となって、1点を失う。結局、桐光は0-1で横浜に敗れてしまったが、全国屈指の右腕と評されていた涌井と五分に渡り合った山室の名前は、一夜にして全国の高校野球ファンの間を駆け巡った。
そして山室は3年の夏、甲子園出場を果たす。しかし腰痛に悩まされていた山室の背番号は10。ピッチングも伝説とは程遠い内容だった。山室はプロ入りをあきらめ、青山学院大学に進学する。
ところが青学大でも、山室は期待を裏切った。ケガだけでなく、重度のイップスに陥り、フォームがバラバラになってストライクが入らなくなってしまったのだ。
そんな山室に、またも野球の神様が舞い降りてくる。それまでほとんど投げられなかった山室が、4年の春、突如として伝説のピッチングを披露したのだ。リーグ戦での初勝利は、最速154キロを叩き出す、圧巻の内容。中大を7回途中まで無失点に抑え、プロのスカウトに計り知れない潜在能力の高さを見せつけたのである。
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