池上彰が説く「北方領土問題」の歴史、超基本 首脳会談直前!歴史的な経緯を振り返る
2つの終戦の日が問題を生んだ
日本では、8月15日を「終戦記念日」としています。でも、国際法上の太平洋戦争の終結は、8月15日ではないのです。天皇陛下の玉音放送から約半月後、東京湾に停泊中の戦艦ミズーリ号の上で、日本は降伏文書に調印します。国際法上の太平洋戦争の終結は、降伏文書に調印した日、1945年9月2日ということになります。
8月15日と9月2日、このふたつの終戦日のずれが、現在に至る北方領土問題の原因を生み出します。8月15日から9月2日までの空白の約半月間、ソ連軍は千島列島を侵攻し南下、島々を次々と占領して、8月28日に択捉島に上陸を開始。9月5日には北方領土をすべて占領、北方四島を一方的にソ連に編入しました。
歯舞群島や色丹島に関しては、日本が降伏文書に調印した9月2日のあとも、4日まで攻撃して占領したのです。ソ連、現在のロシアにすると、国後島と択捉島は戦争で勝ち取ったものだ。しかし、歯舞群島と色丹島は戦争が終わったあとに占拠したもの。国際法上は、日本に返さなくてはならないという思いを持っているのです。
ここで改めて北方領土をめぐる経緯を見ておきましょう。1855年「日露通好条約」で、国後、択捉、歯舞、色丹は日本の領土、その先の千島列島はロシアの領土だと確定しました。
当時の樺太には、ロシア人も日本人もたくさん住んでいました。そこで樺太は、日本とロシアどちらの領土にもしないという約束をします。ところが、両国民が混住している樺太では、開発をめぐって、たびたび両国間の紛争が起きるようになります。
混乱を避けるために、樺太は、ロシアの領土にしましょう。その代わりに、千島列島は全部日本に渡します。そう決めたのが1875年の「樺太・千島交換条約」です。これで北方四島から千島列島まで、すべて日本の領土になりました。さらに1905年、日露戦争で日本が勝利した結果、「ポーツマス条約」によって樺太の南半分まで日本の領土になったというわけですね。
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