池上彰が説く「北方領土問題」の歴史、超基本 首脳会談直前!歴史的な経緯を振り返る

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そして1945年、日本は太平洋戦争に敗れます。1951年に締結された「サンフランシスコ講和条約」によって日本はアメリカをはじめとする連合国と、「戦争は完全に終わりました。お互い平和に暮らしましょう」という平和条約を結びました。

しかし当時は、東西冷戦が激化し始めていた頃でした。ソ連は「サンフランシスコ講和条約」に参加しなかったのです。日本国内でも、ソ連も含めた講和条約でなければ意味がないという意見が出ますが、結局ソ連以外の連合国との間で講和条約を結びました。「サンフランシスコ講和条約」では、千島列島は放棄します。樺太の南半分も放棄します。日本はそう宣言しました。

1956年に国交は回復しています。しかし、平和条約を結ぶには至りませんでした。平和条約を結ぶということは、国境線を確定するという意味があるんですね。日本は、千島列島と樺太の南半分は放棄すると宣言はしたけれども、現在まで平和条約を結んでいないので、ソ連との間に国境線は確定していないのです。

国後、択捉は日本のものではないと発言

日本とソ連、そして現在のロシアとの間では、どのような話し合いがされてきたのかを見ていくことにしましょう。日本が正式に降伏するまでの空白の期間に乗じて、北方領土はソ連軍によって占領されてしまいます。日本としては、国後、択捉、歯舞、色丹の4島に関しては、そもそも1855年の「日露通好条約」で、日本のものだと決まっている。日本固有の領土であるという方針をとってきたことになっています。

ところが、1950年、国会の質疑応答で「千島列島にどこまで含まれるか」という問いに「歯舞、色丹は千島に含んでいない(すなわち国後、択捉は千島列島に含まれる)」と、答弁に立った政府の幹部が言ってしまった。

1951年の「サンフランシスコ講和条約」で日本は千島列島を放棄しますよね。ということは、国後、択捉は日本の領土ではないことになってしまいます。1956年にその答弁を取り消して、国後、択捉は千島列島ではない。日本固有の領土だ、という言い方に変えました。

現在、日本政府は国後、択捉、歯舞、色丹を日本固有の領土だと主張していますが、1950年に国後、択捉は日本のものじゃないと言っているじゃないかと、ロシアから責められても仕方がない弱みもあるのです。

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