「失敗は自己責任」と断じる人への強い違和感 成功した人だって「たまたま」かもしれない

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逆に、自分の成功に伴う偶然の要素(幸運)を正しく認めることができれば、成功者には多少なりとも「偶然に感謝する感情」が生まれてくることになるだろう。

そして、それが社会意識に反映されると、失敗者に対して寛容な社会となり、所得の分配(累進課税や富裕税)への反発が減ることにもなる。なぜなら感謝の気持ちは、人を寛容にするものだからだ。

さらには失敗したとみなされている人たちも、自己責任という重荷から多少解放されることになるだろう。自分にはどうすることもできない偶然性が関与していたのだから、全責任を負う必要はないと感じられるわけである。

また周囲もそのように考えられるようになれば、より救われることにもなる。失敗した人は失敗そのものよりも、失敗に向けられる周囲の目に苦しめられることが多いからだ。

本当に、自由意志によって能動的に行動しているのか?

注目すべきは、著者が改めて「自己責任」という言葉の意味を問いなおし、問題提起をしている点だ。

この世界は現在、主体性(意思)という強迫観念にかられているように思う。常に自由な選択肢の中から意思的(能動的)に行動を選ぶことが求められ、その結果には責任を負うべきだと考えられている。この考え方は自己責任という言葉であらわされ、しばしば政治的に社会的弱者を抑圧する機能を果たしている。しかし、そもそもぼくたちは本当に自由意志によって能動的に行動しているのだろうか。
脳科学によると、意思は行動に先行するものではなく、行動が先行してから意思が生じるようだ。(中略)また、意思的に遺伝的要素や生まれ落ちる環境を選択することはできないが、そういった要素は行動に大きな割合で影響する。すると、遺伝・環境⇒行動⇒意思という順に進行しているのだということになる(もちろん⇒は必然的進行を表すのではないが)。(156〜157ページより)

学校教育で求められる学力にも、遺伝的要素、環境的要素が大きく関わっている以上、学業成績がふるわないことも全面的に自己責任とは言い切れない。職業上認めにくいことではあっても、それは認めざるを得ない真実でもあると著者は記している。

さらにいえば、社会的な成功も失敗も「たまたま」の要素が強いのだから、社会的成功や社会的失敗をすべて自己責任に帰するのは不当なことでもあるという。

そもそも、責任(responsibility)とは、respondと同じ語源をもち、反応すること、応答することだった。状況や相手が求めるものに応じることであり、ものを本来的に使おうとしたり、不遇な人の状況を知って、それに反応してなにかしら手助けしようとしたりすることが責任であったはずだ。だからたまたま失敗した人の境遇についての責任は、むしろ手助けできる立場の側にある、と言うこともできるだろう。(157〜158ページより)
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