「失敗は自己責任」と断じる人への強い違和感 成功した人だって「たまたま」かもしれない
シリアで武装勢力に拘束されていた、フリージャーナリストの安田純平さんが解放されたのは2018年10月23日のこと。2日後の10月25日には無事に帰国し、11月2日に記者会見も行ったが、この一連の動きのなかでは残念ながら、私が予想していたことが起きた。
「自己責任だ」という意見が出たことがそれだ。おそらくそうなるんだろうなと思ってはいたのだが、さまざまなメディアを通じ、安田氏を非難する人を目の当たりにした結果、やはり“がっかり”してしまった。
ジャーナリストの使命は、本人がその必要性を感じた場所に赴き、取材し、記事を書いて発表し……つまりは、いま、その場所で起きている事実を報道することである。
ジャーナリストのおかげで私たちが知ることになる事実も少なくなく、つまり彼らはそうした“役割”を担っているのだ。「自己責任だ」と非難すべき対象ではないと筆者は考える。
ここでは別に、安田氏の問題を取り上げたいわけではない。しかし、あの一連の出来事が、世間に蔓延する「自己責任論」の問題点を浮き彫りにしたことだけは否定できないと感じるのだ。
ちょっとくらい失敗したってなんとかなる
それがずっと気になっていたからこそ、『さよなら自己責任 ――生きづらさの処方箋』(西きょうじ著、新潮新書)についてはタイトルを見た時点で興味を持った。著者は、30年以上にわたって英語を教え続けてきた実績を持つ東進ハイスクール講師である。
そんな立場から、まずは「受験に失敗するのは、ただ勉強が足りないから」だと主張している。運の悪さとは別の話で、受験の合否は自己責任だという考え方が原則的なスタンスだということだ。ところがそれは理屈であって、現実的にはそうとも言い切れない部分もあると認める。
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