「失敗は自己責任」と断じる人への強い違和感 成功した人だって「たまたま」かもしれない

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その例として、阪神・大震災で家も勉強道具も失った受験生のことが挙げられているが、ほかにも、受験直前に母親が亡くなった生徒、父親が破産した生徒、交通事故にあった生徒、経済的事情から途中で受験をあきらめた生徒など、さまざまなケースを見てきたという。

そんなときには立場上、逆境に打ち勝って前へ進むよう生徒に促すものの、本心では「実際にはそう簡単にはいかない場合もあるなあ」と感じているというのである。

現在の社会においては、そういう迷い、というか、割り切れない部分を切り捨てた言説が声高に語られています。しかし、もう少し中途半端であってもいいのではないか、と私は思うのです。うまく割り切れない部分、ノイズとみなされがちな部分があってこそ、世の中は豊かなのであり、そういう部分を受け入れる余裕があって初めて社会は様々な人が生きやすいものになるはずです。「いい加減」というのは人を責める言葉として使われていますが、これをgoodな加減というように考えれば、社会にはもっと「いい加減さ」が必要なのではないか。(「はじめに」より)

過度に自己責任を問う社会は、他人を監視し尋問する社会。そんななかで多くの人は、他人を責めることによって、本来なら同じ社会のなかで関係しあっているはずの自分の責任をゼロにしようとしているのかもしれない。著者はそう推測している。

とはいえ、相互監視のもとで失敗した者を断罪しようとする社会が生きやすいはずもない。「失敗したら責任を取れ」ではなく、「ちょっとくらい失敗したってなんとかなるよ」というメッセージを伝えることも、いまの社会には必要だという考え方である。

偶然の要素を正しく認めることで得られるもの

そのことに関連し、著者が注目しているのは人生と「偶然」との関係だ。自分が「いま・ここ」に存在しているのは偶然が関与した結果であり、成功や失敗を含め、さまざまな事象には偶然性が関与している場合が多いということ。

一方、人間の認知バイアスはそれを認めたがらないものでもある。そのため、人々は本来存在していないはずの因果関係を見いだし、誤った選択、判断をしてしまいがちだというのだ。

成功した人がその成功には偶然が作用した、ということを実感できるとどうなるか。そんなことは認めたくないという感情をおさえて、自分の成功に偶然が作用したと正しく認識できれば、誰かが成功していないのも偶然の結果だと考えられるだろう。人には結果しか見えないので、成功者は理由があって成功したのだから成功にふさわしい人間だが、失敗した人は能力もなく努力もしていないのだから失敗に値する人間だ、と決めつけがちだ。しかし、実際には、そのように結論づけることは間違いだ。(26ページより)

成功を自分の努力と能力のたまものだと思い込んでしまうと、「その報酬を努力も能力も足りない者に分配するなどとんでもない」という発想に至り、結果として不寛容な社会を助長することになるというのである。

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