なぜ”戦う哲学者”は子どもを持ったのか

軽蔑の裏返しで抱いた「通常人」へのあこがれ

さらに根本的に反省してみると、1から「害悪があってもいい」、あるいは「害悪をなくす必要はない」という結論を導くこともできます。哲学をやってきてよかったことは、「通常人」が想像することもないような「自由な発想」をすることができるからです。生きるにあたって、必ずしも善や幸福を追求する必要はなく、必ずしも悪や不幸を避ける必要はないんじゃありませんか? 「この世が、あるいは自分が、悪や不幸に満ちているからこそ生きている」という、ヒネクレタ道も残されているんじゃないですか? 

なぜ私は人を殺さないか

私は何を言いたいのか? ドストエフスキーやニーチェやサルトルを持ち出すまでもなく、「『こうすべきだ』と決まっていることは何もない」ということ、裏を返せば「『こうすべきではない』と決まっていることも何もない」のです。たとえば、私は人を殺したことがありませんし、これからもたぶん殺さないでしょうが、「なぜ」なのかまったくわかりません。「当人の貴重な人生を奪ったから」「残された者が悲しむから」「刑務所に入りたくないから」……という理由をいくら持ってきても、へ理屈のような気がしてしまう。私はただ、なんとなく「人を殺さないほうがいいだろう」と思って生きているだけなのです。

以上のように、1の見解には完全に合意しても、それから導き出すことはさまざまに揺らぎ、必ずしも2には行き着きません。私は、小学生の頃から、「こんなに世界は、人生は、無意味でむなしい」という疑いえない原理から、「よって、いつかまた巨大隕石が地球に衝突しないかなあ」と考えたり、「よって、死んでしまおうかなあ」と思ったりしましたが、「よって、子どもをつくることはよそう」と考えることはなかった。

なぜなら、多くの読者が誤解しているのですが、私は小学校の頃より、先に示したように、「通常人」を全身全霊で軽蔑し嫌悪しながらも、彼らに無性にあこがれていたからです。小学校低学年の頃から、いつもいつも「どうせ死んでしまう」と考え、いつもいつも「みんなと遊びたくない」と悩み、いつもいつも「眠っているとき以外楽しいことはまるでない」と考えていましたが、そう考えていないらしい周囲の「通常人」に対して、猛烈な反感と、その裏返しとしての羨望の気持ちがあった。「ああ、ああなれたらラクだろうなあ!」と、深いため息をついていました。

そして、法学部という最も「通常人」らしいところに進もうとしたのですが、自分をごまかしきれずに留年して法学部に進むことを断念し、自分には哲学しかないと悟ったとき、私は「通常人」になることを完全に断念しました。そして、「まともではない人間」いわば「被差別者」として生きようと思ったのです。

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