ベートーヴェン「交響曲第1番」の音楽的冒険 モーツァルトと入れ替わりに登場した天才

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ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、1771年12月、おそらく16日に、ボンでオペラ歌手の息子として生まれます。幼少期からの神童伝説があります。長じて、ボンにルートヴィヒあり、と言われる存在になります。が、しょせん、小さな田舎町の話にすぎませんでした。

ところが、1792年7月のことです。

巨匠フランツ・ヨーゼフ・ハイドンがロンドンからの帰途ボンに立ち寄ります。青年ルートヴィヒは21歳になっていました。ボンの町の音楽関係者の間ではルートヴィヒはすでに大きな存在でした。巨匠が来るとなれば、是非会わせようという世話を焼く貴族もいました。ハイドンとの面会が実現しました。この出会いは田舎の天才からすれば人生を決めた出会いだったかもしれませんが、すでに功成り名を遂げていたハイドンからすれば、各都市を訪問すれば必ずこの種の面談はこなさねばならぬお決まりの日程だったのでしょう。

そこで、ハイドンは若きベートーヴェンの作品を見ます。「皇帝ヨーゼフ2世の死を悼むカンタータ」でした。ハイドンは、ルートヴィヒの異能を感じ取り弟子入りを許しました。

すると、その年の11月、早速ルートヴィヒがウィーンに上京します。というか、移住して来ます。賭けに出たとも言えるでしょう。いよいよ、力試し、運試しです。11月2日の早朝、乗合馬車でウィーンを目指す青年の心境はどうだったでしょう。 実は、この時期はフランス革命後の混乱と激動の時代でもあります。フランス革命軍とハプスブルク帝国軍との戦闘もあって、この乗合馬車の旅程はかなり危険だったといいます。が、8日後、無事ウィーンに到着しました。

大天才モーツァルトが不遇のうちに逝ったのが1791年12月です。そのモーツァルトと入れ替わるが如く、1792年11月にやって来たのがベートーヴェンというわけです。またも、トリビアですが、ジャズの世界でも1955年にチャーリー・パーカーが逝ったら、入れ替わるようにキャノンボール・アダレイがニューヨークに登場した例があります。天の配剤でしょうか。

「悪魔の指を持つ」ピアニスト

楽都ウィーンへ上京して来たベートーヴェン。無名です。巨匠ハイドンの弟子という以上のものはありません。宮廷とも無縁。ベートーヴェンにあるのは溢れる才気と野心のみ。ゼロからの出発です。ウィーン到着早々、ベートーヴェンはハイドンに師事し作曲の基礎となる対位法を勉強します。1年間で習作を245曲も書きました。しかし、ハイドン先生は42曲しか手を入れていません。彼は指導者としてはダメでした。それでも、ベートーヴェンは作曲の勉強を続けます。

そこで、生活していくために、若きベートーヴェンが生業としたのは、ピアノ教師です。貴族が自分の娘を出来るだけ格式の高い家に嫁がせるために教養としてピアノを学ばせていた時代です。貴族の子弟相手にピアノを教えて、生活するに困らぬ程度の収入は得るようになりました。
そして、ここからがベートーヴェンの本領発揮です。

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