ベートーヴェン「交響曲第1番」の音楽的冒険 モーツァルトと入れ替わりに登場した天才

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ベートーヴェンは、楽聖として崇拝の対象になり、権威そのものという感じです。しかし、ベートーヴェンといえども、最初から楽聖だったわけじゃないですし、品行方正だったわけでもありません。21歳で田舎町ボンから楽都ウィーンに出て来て、ミスター・ノーウェアマンの時代もあるのです。恋の悩みもあれば、音楽家としての将来への不安だってあったでしょう。しかし、29歳の時、入念な準備のもと世に問うたのが交響曲第1番なのです。これで、ベートーヴェンの作曲家としての基盤が固まりました。飛躍の用意はできたのです。

しばしば、芸術家に関しては、処女作にほとんどすべてが顕れているとも言われます。ハルキストにとって、「風の歌を聴け」は汲めども尽きぬ魅力と文学的な冒険に満ちています。ビジネスでも、小型航空機市場を席巻しているホンダジェットのスピリットの原点は、まだ新興会社だったホンダのF1参戦にあります。1969年のメキシコグランプリ優勝がその後の発展の原点です。同様に、交響曲第1番にはいずれ全貌が現れるベートーヴェンの巨大な楽才の予兆があります。

「力」をためたボン時代

ベートーヴェンは、21歳まで過ごしたボン時代に多数の習作を書いています。ウィーンに来てからは、20曲に及ぶピアノ三重奏曲やピアノ協奏曲をすでに発表しています。ただし、交響曲には手を出しませでした。交響曲は作曲家の総合力が問われるからです。

背伸びはしない。「力(ちから)」をためて発表する。「力」とは、まずは純粋に音楽的なものです。ハイドンやモーツァルトが確立した交響曲というジャンルをしっかり把握する。その上で偉大なる先達が試みたことのない新機軸を打ち出す。そのためには、ウィーンでの知名度を上げて有力貴族からの支援を得る。それがベートーヴェンの戦略でした。

そして、1799年。自らの力が備わったと確信、本格的に作曲を始めます。ピアノ曲、室内楽曲、協奏曲、舞曲などそれぞれのジャンルの技法はすでに身に付けています。それらを高純度で統合するのです。実は、ボン時代にも交響曲の断片的なスケッチは書いていました。ウィーンに来てからも交響曲のスケッチを書きました。これまで学んで来た音楽の奥義と試みてきた音楽的な冒険をすべてぶつけました。

翌1800年。世紀の変わり目の年。完成です。初演は4月2日。ウィーンの名門、ブルク劇場です。トリビアですが、本コラム第2回のモーツァルト「後宮からの誘拐」の初演もここでした。

この時、ベートーヴェンは29歳4カ月。20代最後です。ここから破竹の勢いで傑作を連発していきます。まさに作曲家ベートーヴェンにとって分水嶺となった作品です。交響曲の歴史で言えば、モーツァルト最後の交響曲、第41番ジュピターを継承する交響曲の王道の大きな一歩を踏み出したのです。

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