日本一のヒガンバナ群生「巾着田」の誕生秘話 9月30日まで「曼珠沙華まつり」が開催
最初はどのように増やしたか
巾着田というやや変わった地名がなぜ付いたのかは、巾着田の北西に位置する日和田山(標高305メートル)に登ってみればすぐに理解できる。正丸峠に源を発する高麗川が山間部を抜け、平野部に入ってすぐに大きく蛇行する。その蛇行した川に囲まれた部分が、まるで巾着袋のような地形になっており、1970年代のはじめ頃までは、巾着田内で稲作が行われており、文字どおり田んぼだった。今では田んぼは一部を除いて消滅し、広場や駐車場などに変わっている。
かつて田んぼだったエリアを囲うように、上流から運ばれてきた砂礫(されき)が河岸に堆積してできた自然堤防があり、この堤防と川に挟まれた堤外エリア(約5万5000平方メートル)に、およそ500万本といわれる曼珠沙華が群生しているのだ。
曼珠沙華の本数は、2005年当時のパンフレットには「約100万本」と書かれており、現在は公式には約500万本、駒井さんによれば「実数は700万本くらいあるのではないか」と、その数は年々増え続けている。しかし、最初から自然に増えたわけではないという。
話は1960年代にさかのぼる。日高は東京都心から40キロ圏内にあり、高麗川の清流や日和田山などの自然、高麗神社などの文化財がある。このような環境から、現在も「遠足の聖地」を宣言(2017年4月8日)するなど、都内や埼玉県下の子どもたちの遠足の誘致に積極的だが、当時から多くの学校が遠足に訪れていた。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら