シンガポールの医療技術のレベルは日本と遜色ないほど発達している。しかし、「(東南アジア)周辺諸国と比べると日本のほうが進んでいる分野はまだまだある」と田中氏は言う。一例が、肝機能を検査するために必要な血液のスクリーニング。その精度は日本のそれよりも劣るため、遺伝やウイルス感染による異常の発見が遅れるリスクがある。
日本の医療業界にとっても、シンガポールをハブに技術提供を行うことで、それが新たな収益源となり、また周辺国との交流も生まれることなどが期待できる。だが、これまで日本の医療業界は海外に技術を輸出することを躊躇してきたため、このような展開は難しかったという。なぜか。
「『医は仁である』という価値観の中で、海外と国内を医師が行ったり来たりすれば、自分たちの資源がなくなる。また、医師が国民皆保険以外の制度を海外で知ってしまえば、異なるシステムが生まれてしまう。そう思われてきました」(田中氏)。技術や人材の流出、長寿国日本を支えてきた社会インフラの変容をおそれていたのだ。
しかし、そうも言ってはいられなくなった。病気やケガで医療機関を受診した場合、患者が医療費の3割を負担し、残りは医療保険で賄われる国民皆保険制度。それを支える財源が、高齢化に伴い肥大する医療費に圧迫され(厚生労働省によると2011年度で38.6兆円)、次世代に引き継げるかが喫緊の課題となっている。
こうして、脱ドメスティックを迫られることになった医療業界が、新たな収益源確保を求めて目指した先のひとつが東南アジア。その進出をサポートするのが、すでに東南アジアで医療事業を行っていた三井物産だ。「アジアの高度医療における需要供給ギャップを埋めたい」と、コンシューマーサービス事業本部長で常務執行役員の田中聡氏は開所式でこう語った。
総合商社の「これからの付加価値」は何か
三井物産と医療分野のかかわりは長きにわたる。医薬品や医療機器などのサプライヤー事業に数十年携わり、今ではマレーシアの国策投資会社が保有するアジア最大手病院グループIHH社へ900億円の出資参画を通じて、病院の運営などサービスを自ら提供する側に移行している。こうした経緯が前出の新クリニックの開設に生かされた。
同社が自ら医療サービスを提供する側に移行した背景には、「商社が行う『アービトラージ』がもたらす付加価値が(以前に比べると)出にくくなってきたから」だと、アジア・大洋州三井物産のメディカルヘルスケア事業室室長の櫻井敏治氏は分析する。
アービトラージとは、取引する2者間の差、特に商社の場合は情報ギャップを生かして利益を生むこと。たとえば20〜30年前であれば、日本の会社がブラジルにおける超音波診断装置の売値が知りたくても、その手段がなかった。だから、現地にいる商社の駐在員がブラジルの病院に行って話を聞いてくる。そうすることで日本の会社は貴重な情報を、商社は仲介料を得ることができた。
だが、そんな時代は終わった。インターネットの普及に加えて、ビジネスレベルで英語を話せる人材も当時に比べれば10倍ほどに増えた(櫻井氏談)。日本と海外の会社が直接の取引を行いやすくなったことで、商社が提供する付加価値を再考する必要が生じたのだ。
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