飯舘村の「帰還農家」で咲かせた未来への希望 荒れ野の古里によみがえる高原の花々

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花作りを手ほどきしてくれたのは、友人で同村松塚地区の農家、高橋日出夫さん(68)。阿武隈山地の冷害常襲地だった村でコメに代わる新しい特産品として、夏も涼しい気候に合った花を広めた1人だ。「コメ、牛、野菜の農業経営を切り替え、新しい挑戦をしたい時だった。比曽の農家仲間と誘い合って、ハウス1棟で試験的に始めた。最初は花丈が伸びすぎる失敗があったが、面白くなって2年目からのめりこんだ。最盛期には9棟に増えた」

原発事故前、飯舘村には花の生産者が90人余りいたという。しかし、住民は離散。栃木県那須塩原市などの避難先で再開した人もおり、高橋さんは福島市内でトルコギキョウの花作りを続けた。

避難指示が解除された昨年春から、同じ松塚地区の仲間3人と国の農業復興支援のハウス18棟でカスミソウの栽培、出荷を始めた。除染作業の後も作り手の戻らない水田に立つハウス群の景色は、村の復興への希望になった。

啓一さんは、比曽地区の除染が遅れて1年後の再開になったが、やはり国の支援事業で3棟(約10アール)の新しいハウスを建てた。「大事なのは販売先が確保されていること。原発事故前から高橋さんらと共に長い付き合いで、信頼関係のあった大田市場の花き卸業者が、今回の栽培復活に当たっても取引の再開を約束してくれた」

お盆を過ぎ、菅野さん夫婦の忙しい収穫と出荷の作業は、秋のお彼岸、ブライダルシーズンまで続く。

ただ、再開1年目の反省もある。新しいハウスの設置が昨年9月になったため、十分な土づくりが間に合わず、そのうち1棟でトルコギキョウが満足に育たないという誤算があった。

連作を避けるため2年目の栽培場所にしようと、原発事故前からある古いハウス5棟に、地力をつけるための牧草を植えて、すき込んでいた。その一部で代わりのカスミソウを育てた。だが、心配を吹き飛ばすように、白雪のような高原の花は見事に咲いた。「原発事故からの長い7年間を越えて、ここでまた生きていく自信を花がくれた」

帰還した住民はわずか

花のハウス群の向こうには、膨大な除染土袋(フレコンバッグ)の仮置き場が広がっている。原発事故前は、山々に囲まれたスイスの谷のような美しい水田があり、住民の多くはコメ作りや肉牛の繁殖を生業としてきた。標高600メートルの高冷地に比曽の人々が拓いてきた風景だった。

除染土の仮置き場が広がる飯舘村比曽地区(撮影:寺島英弥)

だが、汚染された農地を深く削り取られ、牛たちも全村避難に伴って処分された。昨年3月末に飯舘村が避難指示を解除された後も、比曽地区では除染の工程が遅れ、避難先から戻った住民は現在もわずか。87世帯あったうち6世帯だという。

「住民が安心して帰れる環境に戻してほしい」。啓一さんは、除染を担当した環境省の現地担当者たちに訴え続けた。原発事故当時、比曽地区の行政区長を務め、避難までの住民のまとめ役として奔走。その後も、仮設住宅を巡って『比曽ふるさと便り』という手作り情報紙を仲間に配り、帰還までの結束を呼び掛けた。

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