絵は修行して見るようなものでもない。その人がその人としてあるがままに見ればいい。同じ筋道で感性をからめとられるのではなく、同じところに引っ張られないように自分の感性に基づき見る。同じ筋道に入ることはなく、どれがいいかはおのずとわかってくる。
もともと絵は個人が勝手に描いているもので、それに決まった「答え」などない。とにかく自分がいいと思ったらいい。人が共感しようがしまいがそれでいい。それが絶対なのだ。
うんちくを語っても人の心に伝わらない
──モダンアートについては。
批評家の腕がいちばん試されるのは、何ともわからない絵をいいものはいいと言えるかどうか。すでにいいといわれているものをいいと言うのは批評ではない。たまたま批評を書き始めた頃が、村上隆や会田誠などが20代前半のときに当たった。彼らの作品は今までのものと違う。自分が生きている時代を考えることにもなると。そこで価値が定まっていない絵を積極的に見ることで批評家として本筋に出合えた。
結局、批評、批評家は人となりなのだ。その人がなぜそういうものをいいと思うのか、背景がある。その価値観、たたずまい、人生の歩みが重要で、それが批評の読み手を納得させる。
──既存の知識でなく?
マニュアル化された見方は知識をひけらかすだけになりかねない。うんちくを語っても、どこかで聞きかじったようなものは人の心に伝わらない。過去にこんなことがあって、自分の今の感性につながっていると気づかされた。こういった見方のほうが人に伝わる。
先輩に当たる美術批評家に針生一郎、中原佑介といった面々がいる。彼らは専門が美術ではない。針生はドイツ文学、中原は京都大学の湯川秀樹研究室(素粒子物理学)だった。批評は英語でクリティーク。縁のことだ。ここから先に行くと落ちてしまうという。ぎりぎりのところで、いいか悪いか賭けみたいなことをつねにしているが、別の立ち位置から見たほうが、創造的な挑戦や飛躍ができるのかもしれない。
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