キーコーヒーが「100年企業」になれた理由 農場壊滅、トアルコトラジャ復活、M&Aを経て

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キーコーヒーの歴史上、最も厳しかった局面は、1953年にブラジル南部で起きた大霜害だ。日本全体が戦争からの復興へと向かう過程で、コーヒーが市場に普及し始めたときのことだった。霜害とは、気温の低下によって作物が霜で凍り死滅してしまうこと。これにより多くのコーヒー農場が壊滅状態となり、生産量の激減に伴って国際コーヒー市況が高騰。同社も例外なく影響を受け、経営危機に陥った。

その後は金融機関からの借入や企業からの支援を受けてなんとか再建。こうした状況から、「リスクに対してアンテナを高く張ることを学び、今以上の対外的な信用の向上と経営的な安定を図るため、上場へのベクトルを持つようになった」(代表取締役社長・柴田裕氏)。

コーヒーの個人商店から企業へ

2代目・博一氏に経営のバトンが渡されると、キーコーヒーは「コーヒーの個人商店」から企業へと変化を遂げる。1978年以降、近代的な設備を目指し、千葉・佐賀・宮城・愛知の4カ所に次々と工場を開設した。そして同年、同社のフラッグシップブランドである「トアルコ トラジャコーヒー」が発売された。この背景には、幻と言われたトラジャコーヒーの再生事業の復活劇がある。

発売時のトアルコ トラジャ(写真:キーコーヒー提供)

トラジャコーヒーはかつて、インドネシア・アラビカ種の最高峰として、上品な風味と希少性ゆえヨーロッパの貴族向けに産出されていた。しかし、第2次世界大戦の混乱中に市場から消えてしまった悲しい過去があった。

これに目を向けた同社は、まず現地へコーヒーに関する有識者を派遣し、近代的な栽培技術の啓蒙や、橋・道路などのインフラ整備で蘇らせた。通常1本のコーヒーの木からとれるコーヒーは50杯程度だが、トアルコ トラジャは36杯分しかとれない。フラッグシップにふさわしい、厳しい品質基準を採用していることがわかる。

こうした事業拡大を経て1996年に東証2部上場、翌1997年には悲願の1部上場を果たした。さらに柴田裕現・社長の時代に移ると、コーヒーと親和性の高い外食産業に進出。2005年に洋食チェーンのイタリアントマトを、2012年には老舗喫茶のアマンドを子会社化。2013年には、老舗喫茶の銀座ルノアールと資本・業務提携した。

「時代と文化の扉を開く鍵」という創業者の思いは、コーヒー文化の裾野を広げながら受け継がれている。

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