PL学園野球部、廃部2年の今に残る最後の灯 元中日・立浪和義、東洋大・中川圭太の述懐
「偉大な先輩なので、そう呼ばれることは嬉しいですし、今岡さんの顔に泥を塗るわけにはいかない。ドラフト1位は特別な存在。その目標をかなえるべく、いま、野球と向き合っています。自分を必要としてくださるなら、どの球団でもいいと思っています」
そう話す中川がPL学園の2年生だった2013年春。3年生の2年生に対する暴力事件が発覚し、同校の野球部には6カ月の対外試合禁止処分が下った。当時の3年生は、最後の夏を戦うことなく、野球部を引退。そして、この事件を機に、PL教団は野球部の監督に、野球未経験者である学園の校長を据え、翌年の秋には新入部員の募集停止を発表した。
PL学園の灯はまだ消えたわけではない
いわば、廃部の引き金となった事件の被害者世代なのである。中川が当時を振り返る。
「PLのユニフォームを着て野球がしたい、甲子園に出たいという気持ちで入学したのに、ユニフォームを着られない悔しさはあったし、何のためにここに来たのか、という思いは抱えていました。6カ月は長かった」
実質、監督が不在の中で中川を主将に新チームはスタートし、翌2014年夏は大阪大会の決勝まで進出した。中川はセカンドを守りながら守備隊形を指示し、攻撃時はサインを出していた。
「昔は教団も野球に力を入れていたと思うんですけど、不祥事続きで野球部に目を向けられなくなり、すべてが“自分たちでやれよ”という感じだった。それは寂しかったですよね。ただ、実質、監督がいないなかでも自分が監督の役割を担うことで、野球そのものを学べた。甲子園に出場することはできませんでしたが、僕はPLの野球部で良かったと思うし、だからこそ今も野球を続けられているんだと思います。目標とするプロに遠回りしたとは思っていません」
PL学園の野球部は、確かに2年前、消滅した。しかし、その灯はまだ、完全に消えたわけではない。
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