モーツァルト「後宮からの誘拐」の斬新な響き 雇用主から解雇され、自由な発想で作曲

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えっ、神童だったモーツァルトが上司と喧嘩してクビになったんですか?
そうなんです。

神童伝説は、息子ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの天才を確信した父レオポルドの大戦略です。父レオポルドは、息子モーツァルトの恐るべき才能を宮廷に印象づけ、将来の大音楽家としての道につなげる目的で欧州の主要都市をめぐっていたのです。結果、父の狙いどおり幼きモーツァルトの神童ぶりは、マリア・テレジアはじめ欧州の宮廷に知られはしました。

しかし、就職活動という観点からは効果は薄かったのです。

あれだけの楽才に加え、何度も主要都市で試みた就職活動にもかかわらず、25歳のモーツァルトの地位は、故郷ザルツブルクの宮廷楽団のオルガン奏者にすぎません。つまり、宮廷楽団に雇われているサラリーマンということです。雇用主は大司教コロレドでした。

そして、若き天才モーツァルトと守旧派のコロレドの関係はギクシャクしていました。モーツァルトにしてみれば、故郷ザルツブルクは、岩塩の積出地として発展してきた戦略的要衝の地ではあっても、こと音楽に関しては田舎街にすぎません。おのれの才能を思う存分発揮するためにパリやマンハイム、ミュンヘンなどのもっと大きな宮廷楽団への任官を目指していたわけです。コロレドは、そんな態度が気に入りません。確かに音楽的才能には恵まれているようだが鼻もちならぬ生意気な若僧、というわけです。

あこがれのウィーン、コロレドとの喧嘩別れ

さて、1781年3月。コロレドは所用でウィーンに滞在していました。社交の場に出入りする大司教コロレドは、ウィーンの貴族たちに自分の楽団の素晴らしさを見せつけたいと思います。そこで、モーツァルトをウィーンに呼びつけます。モーツァルトは大司教のわがままと見栄のための出張にうんざりしますが、音楽の都ウィーンに行けるという点では悪くないと考えます。3月16日、あこがれのウィーンに到着です。自分の楽才でウィーンの人々を魅了し、いずれは皇帝にもアピールするんだと皮算用します。若く無名で野心満々のモーツァルトでした。

ウィーンにおいて、コロレドの指示で出た演奏会でのモーツァルトのパフォーマンスは、確かにウィーンの人々に強い印象を残します。ご機嫌のモーツァルト。しかし、コロレドは、ウィーンでのモーツァルトの音楽活動を厳しく制限します。当然、モーツァルトは反発します。

父レオポルドに宛てた4月4日付の手紙に率直に綴られています。

「大司教はここではぼくにとって大きな邪魔者です。僕が劇場で発表会をして間違いなくせしめたはずの100ドゥカーテンをふいにしてくれました・・・われらの下司野郎(大司教)は・・・自分の雇い人が儲けるのを望まず、損をさせたいのです」

そして、運命の5月9日が来ます。

モーツァルトとコロレドは激しくののしり合いました。まさにその夜、モーツァルトは、「僕はまだ腹わたが煮えくり返っています」という書き出しで父宛に手紙を書きます。

大司教は僕のことを 「ろくでなし、餓鬼、ばか」 と呼びました・・・
僕は言ってやりました「では大司教猊下は私に不満なんですね?」
「何だ、貴様はわしを脅す気か?ばかもん・・・ドアはあそこだ・・もう用はない」
「僕ももう、あんたに用はありませんね」
「さあ、出ていけ」
僕は、部屋を出ながら「これが最後です。明日文書で届けます」

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