信長、秀吉を診察し、家康に医術を授けた名医 伝説の医師・曲直瀬道三とは何者だったのか
秋葉:道三という人はまさに戦国大名の気風、下克上の気風を持っていたんですね。それまで医師の家には半井(なからい)や坂、吉田という名家がありましたが、道三は彼らを押しのけて、京都で一番の名医にまでのし上がっていった。さまざまな有力武将たちと意気が通ずるのは、同じ新興のエネルギーを持っていて、良い意味での下克上の精神を濃厚に持つ者同士だからではないでしょうか。
山崎:京都に入るタイミングというか、時期も良かったですよね。
秋葉:道三は1546年頃に、関東から京都へ戻ったのですが、ちょうどその頃、京都は応仁の乱の惨状からの復興の時期に入っていました。とはいえ、時代は「人は石垣、人は城」で戦国の世ですから、武将自らはもちろん、家臣たちの健康上の問題が非常に大きくクローズアップされてきた、つまりは医療が強く求められる時代になってきたのです。
師・田代三喜に学んだこと
――道三の師であった田代三喜は、どういった人物だったのでしょうか。
山崎:田代三喜は、12年間明朝にいたのち、1498年に日本に帰ってくるわけですが、明朝の医学、特に李朱医学(李東垣[りとうえん]、朱丹渓[しゅたんけい]という2人の名医の名をとった医学)と言われる、当時の明の主流派医学を日本に持って帰ってくるわけです。
秋葉:田代三喜という人物は、実在したのか否かも含めて謎の多い人物ですけれども、彼は自分が持ってきたもの、自分が身につけた医学知識の価値はよく知っていたと思います。ですから、当初は、その知識をもって当時の都である京都で医師としてやっていきたいと考えたのではないでしょうか。しかし、当時の京の都はまだ応仁の乱後の余燼がくすぶっていましたから、自分の翼を伸ばすようなときではないということで、京都から離れて出身地である関東のほうに戻ってくるわけですね。
山崎:最初は鎌倉に3年くらいいましたね。
秋葉:そうです、鎌倉にいました。ところが、そこで満足せずに、結局、足利氏の庇護のもとに古河(現在、茨城県)に移るわけですね。そこで「古河の三喜」と呼ばれるまでに名声が高まるわけです。道三はそのような三喜の名声を耳にして、彼のもとに入門したのでしょう。
田代三喜がよく使っていた言葉に、「啓迪(けいてき)」という言葉があります。「迪」とは「道」を意味し、「啓」は「開く」という意で、つまり「啓迪」とは「道を拓く」、または「教え導く」ということですね。おそらく彼は、強い自負心を持ってこの言葉を使っていたと思います。たしかに曲直瀬道三という医師を育てましたけれども、三喜としてはもっと多くの弟子を育て、自らの知識を活かして欲しかったのでしょう。彼はそれを果たせないで亡くなりましたが、弟子の道三が彼の遺恨を実現するかたちで、京都に戻って日本の医学に多大な貢献をすることになったわけです。