信長、秀吉を診察し、家康に医術を授けた名医 伝説の医師・曲直瀬道三とは何者だったのか

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――医師としての曲直瀬道三の凄さはどこにあるのでしょうか?

山崎光夫(やまざき・みつお)/作家。昭和22年福井市生まれ。早稲田大学卒業。TV番組構成業、雑誌記者を経て、小説家となる。昭和60年『安楽処方箋』で小説現代新人賞を受賞。特に医学・薬学関係分野に造詣が深く、この領域をテーマに作品を発表している。主な著書に『ジェンナーの遺言』『北里柴三郎 雷と呼ばれた男』『日本の名薬』『薬で読み解く江戸の事件史』ほかがある。平成10年『藪の中の家 芥川自死の謎を解く』で第17回新田次郎文学賞を受賞。「福井ふるさと大使」も務めている(撮影:尾形文繁)

山崎:先にも紹介しましたように、信長、秀吉、家康の三傑をはじめ、足利将軍や毛利元就など当時の武将たちが、体調不良に陥るとかならず彼のところにやって来る。これは江戸以降、現代に至るまであまり例がないことだと思います。なぜかというと、ライバル陣営に自身の健康情報が漏れてしまうことは大きな不利益になりますから、主治医が重ならないようにするのが普通なんです。ところが、曲直瀬道三に限っては、ほぼすべての有力武将に請われて彼らを診察しています。

なぜ、道三はそんなことができたのかというと、考えられるのは、一に守秘義務を厳守しているということ、二に医術が抜きん出ていること、そして、三にその人間性が大いに慕われていること。この3つがあったからではないかと考えます。

秋葉:おっしゃるとおりだと思います。その3つの条件を完璧に備えていて、彼は有力武将らの心をつかめる大人物だったのでしょう。戦国武将らにしてみれば、ライバルである武将や将軍も診ている医師に自分の命を預けるというのは、大変勇気の要ることですね。

しかし、一方で、戦国の世は実に合理的判断と言いますか、プラグマティズムが支配していた時代でもありました。ですから、武将たちは、リスクがありながらもメリットの大きいほうを選択したのです。彼に診てもらえば自分自身が延命できる、あるいは病気が治るということのほうが、ネガティブな面をはるかに凌駕したのでしょう。

山崎:道三は合理的思考と戦国の気風がまざり合っていた人だったのでしょう。信長にも秀吉にも、当然、俺のお付きの侍医になれと言われたでしょうが、これらの申し出をすべて断って、自由な立場での医療活動に終始しました。一定の権力者にくみしないという立場を生涯貫いたんですね。

それと、道三の心の底には、権力者には政治をきちんとやってもらいたいという強い思いがありました。病んだ不健康な体で政治をされては、立場の弱い庶民が困る。道三は応仁の乱の疲弊した京都を、目では見ていませんが伝聞で聞いて、いかにひどいものだったかというのを知っているわけです。ですから、再び京都を火の海にするとか、応仁の乱がくり返されるようなことだけは避けたいと思っていたでしょう。そのためには権力者の頭と体を正常に保つということが京都を守る手段だと考えたのではないでしょうか。

なぜ毛利元就は京へ上らなかったのか

――当時の武将たちにとって、道三の診断というのは相当重みがあったのでしょうか。

秋葉:道三の診断は重いと思いますよ。

山崎:私はこの小説を書く前に、1つ疑問に思っていたことがありました。それは、どうして毛利元就は京都に上らなかったのか、ということです。元就は西国10カ国を平定し戦いに負けたことがないというような強者で、財力もあり、3人の息子たちをはじめ優秀な家臣を抱えていたわけですから、元就も当然、京都に上って天下をとっておかしくないなと思っていたんです。

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