信長、秀吉を診察し、家康に医術を授けた名医 伝説の医師・曲直瀬道三とは何者だったのか
秋葉:信長はもちろん武田信玄とか上杉謙信なども、京へ上る野心を示しているわけですから、元就にそうした野心がなかったというのは不思議な話ですね。
山崎:巷間、九州の島津や大友などの有力武将たちに背後を脅かされるのでと言われますけれども、それは子どもを配して守りを固めればよい話です。今回、この書を著すにあたり、さまざまな文献を目にして私なりに謎が解けました。
元就は、出雲で尼子攻めをしているとき、脳梗塞を発症し、道三の診察を受けました。的確な治療で、幸い命に別状はなく回復するのですが、そのようなときに、単刀直入に「京都に上って天下を取ろうと思っているが、どう思うか」と聞いたのです。相手は自分の体調を知っていて、全幅の信頼を寄せている名医です。それに対する曲直瀬道三の答えが、結局、毛利元就を動かさなかった、京都に行かせなかったのです。
元就を診た道三は、「京都に上った場合、天下を支配するにしては年月が必要だ。あなたの寿命はおそらくあと5年くらいで、たとえ京都に行っても天下取りのためにいろいろ働くことは難しいので、そのことは子どもたちに託したらどうか」と助言しました。それを聞いて元就は自重したのです。驚くべきことに、元就は道三が診断した通り、5年後の6月に亡くなっています。
家康に医術を授ける
――著書の帯に「家康に医術を授けた」とありますが、道三みずからが指導したのでしょうか。
秋葉:家康に直接指導したというよりは、道三が記した医学書を読んだ家康が、道三にいろいろ尋ねたのでしょう。丁々発止でお互い話が弾んだのではないでしょうか。
山崎:家康と道三は何度か会っていると思います。道三の晩年ですね。初期の『医療衆方規矩(いりょうしゅうほうきく)』を授けたと考えられます。また、静岡の久能山東照宮博物館には当時の医学書である『和剤局方(わざいきょくほう)』全巻が今でも遺っています。家康もそれらを読んで、興味をもった点について、道三から教えを受けて医療知識を蓄えていったのではないでしょうか。
家康は当時の日本で屈指の医学知識を有していたのは間違いありません。やはり久能山には家康の遺品として漢方で必要な調剤道具類が数多く遺されています。「烏犀圓(うさいえん)」や「萬病圓(まんびょうえん)」などの処方薬を、自ら調合して愛用したり、家臣たちに分け与えていたこともわかっています。
秋葉:広く医学の知識を広めたいという道三やその後継者である玄朔(げんさく)の功績でしょうね。
山崎:道三や玄朔らの医学は「後世方派(ごせいほうは)」として、江戸時代を通じて医学に一大潮流を形づくることになります。その代表的著作『啓迪集』(全八巻)は、全国に広がり各地域で医師を育てることに貢献しました。日本医学史上、曲直瀬道三は、「日本医学・中興の祖」とよくいわれますが、私は、新しく画期的な医学を理論・実践上も完成させた点で、中興ではなく、むしろ、「日本医学の祖」と位置づけてよいのではないかと思っています。
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