41歳「電子機器」に強烈な情熱を注ぐ男の稼業 大きくした会社を去ってモノづくりに戻った

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そこからは、週末に片道1時間半かけて名古屋大須の電気街に友人と自転車で乗り込む生活に。電子部品ショップをはしごして抵抗器やトランジスタを買い集め、ラジオやエアバンド(航空無線を聞くための装置)、ミニ放送局(電波法の範囲で、自分の音声などをFM波で飛ばす装置)などを作っては見せ合うのが楽しくて仕方なかった。

1990年前後の電気街に毎週通っていると、否が応にもパソコンの画面が目に飛び込んでくる。当時のパソコンはまだ高価な道具だったが、親に頼み込んで3年生になった頃に富士通の「FM TOWNS」を買ってもらった。

「パソコンに興味を持ったのは、大須で動いているプログラムを見たのも大きいですけど、例の友人に『機動警察パトレイバー』を教えてもらったのが決定打でしたね。パトレイバーではコンピュータの便利な面と脅威な面が両方描かれていて、使い方によってすごいことになるんだ……と強く引かれたんですよ」

パソコン通信にハマったのは自然な流れだった

高校に進学し、パソコン通信にハマったのは自然な流れだった。叔父からもらったモデムを電話機につなぎ、通信費を気にしながらフォーラムの掲示板(BBS)を読み込んだり書き込んだりする日々。そこにはコンピュータの世界の第一線で活躍しているプロフェッショナルたちの生の声と情報があふれていた。

名古屋で開かれるオフ会には最年少で積極的に参加した。ちょうどその頃、Windows 95が発売されて秋葉原がお祭り騒ぎになっている映像がテレビで流れたが、すでにパソコンとITの世界の最前線を知っている目にはそこまで大きな出来事には映らず、冷めた目で眺めていたことを覚えている。

パソコン通信のBBSにはもっと深刻な情報があふれていた。最前線で働く人たちが「業績が厳しい」「全体的に景気がかなり悪くなっている」と口々につぶやいている。そこから浮かんでくるのは、バブル崩壊が顕在化し、浮かれ気分が消え失せた先の暗い日本の将来像だ。ある意味、テレビや新聞よりもリアルだったかもしれない。高校3年生になったとき思った。――このままでいて、ちゃんと就職できるんだろうか?

「勉強はサボりまくっていたので今さら有名大学なんて目指せませんし、かといって行ける大学に入ったとしてもその先に何もないことも見えていました。だったら徹底的にコンピュータのことを学べる学校で腕を身に付けようと考えたんです。まだ当時はそこまで人材が多くなかったので、先に手をつければ不景気も乗り越えられるんじゃないかと」

大学から専門学校までとにかく見学に行き、学べる環境が充実している進路を探した。これだと思ったのが、名古屋駅にほど近いところにあるコンピュータ総合学園HAL専門学校(現・HAL)だ。マルチメディア学科という4年制のコースを新設する時期で、教室に置かれたパソコンやソフト開発キットの数量や充実度が抜きん出ていた。

HALでは1年時のうちにアセンブラやC言語といったプログラミング言語をマスターしなければならず、毎日課題に追われていたが、元から好きな領域だったので苦には感じなかった。平日は学校が終わると叔父の会社でDTPオーペレーターのバイトをし、週末はバイト代を握って大須に行ってパソコンの拡張パーツをあさる。

1年が過ぎた頃には、さらに週末にもバイトを入れるようになる。周辺機器メーカーのアイ・オー・データ機器が名古屋営業所で店頭スタッフを募集しているのを無視できなかった。それからの週末はバイトとして同社の製品に親しんだ後、大須の電気街を回るのがルーチンになった。

思い描いていた充実の学生生活だ。

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