石破茂氏のとがった発言にみる挑戦者の矜持 自民総裁選で「噛ませ犬」の汚名を晴らせるか
石破氏は参院議員だった父・二朗氏(元自治相)の死去を受け、1986年の第38回衆院選に出馬して政界入りした。二朗氏が親しかった田中角栄元首相(故人)から強く出馬を進められ、勤務していた三井銀行(現三井住友銀行)を退職。田中氏が領袖だった木曜クラブ(田中派)事務局勤務を経て当時の鳥取全県区から自民党公認で出馬し、最下位の4位で初当選した。石破氏本人は田中派からの出馬を希望したが、選挙区に別の田中派現職がいたため、中曽根派(当時)の幹部だった渡辺美智雄氏(元副総理、故人)を頼り、中曽根派からの立候補となった。
石破氏はそれ以来、11回連続で当選し、小選挙区(鳥取1区)移行後も圧倒的集票力を誇る。初当選の86年は、当時の中曽根康弘首相による衆参同日選断行で自民党が圧勝した政治史に残る選挙。同期初当選組は47人いたが、石破氏と同様に現在まで連続当選しているのは、村上誠一郎元規制改革相、園田博之元官房副長官、逢沢一郎元外務副大臣の3氏だけだ。
ちなみに、政界を引退した鳩山由紀夫元首相も初当選同期で、石破氏は「いろんな人がいましたね」と当時を振り返る。今回の総裁選に出馬の意欲を見せる岸田文雄政調会長、野田聖子総務相は1993年衆院選初当選組で首相も同期のため、総裁候補の中では国会議員としては石破氏が先輩だ。
つきまとう離党・復党への批判
石破氏に党内で批判がつきまとうのは、離党により政党を転々とした過去の行動による。1993年の細川護煕政権時に野党だった自民党を離党、改革の会、新党みらいなどを経て、新進党結党に参加した。しかし、同党のリーダーだった小沢一郎氏(現自由党代表)の安全保障政策への不満などから離党し、1997年に自民党に復党した。
このため、政界では「渡り鳥政治家」と呼ばれ、自民党内で「裏切り者」との厳しいレッテルがなお残る。石破氏は、「私の政治家としての信念や政治理念はまったくぶれていない。ぶれたのは政党のほうだ」と反論するが、「過去は消せないだけに、党内での石破氏支持が広がらない原因になっている」(自民長老)との見方は多い。
これに対し、石破氏は最近出演したラジオ番組で「なんで、いわゆる保守層から目の敵にされるのか分からない。多分、私が『保守ってイデオロギーじゃない』と言っているからだろう。保守をイデオロギーととらえる人は、私の保守観は異質に映るんじゃないか」と苦笑交じりに解説してみせた。
石破氏の座右の銘は「勇気と真心を持って真実を語る」だ。政界の師だった故・渡辺美智雄氏から受け継いだ言葉で、石破氏は「いつの場合も、真実は(国民に)ウケない、耳のさわり心地もよくないけれど、でも『こいつの言うことだから聞いてみよう』といわれるようになりたい」と語る。
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