国策でグローバル人材を育成するという矛盾 古典を学ぶことが「エリートの反逆」を防ぐ
藤本:たしかに今の大学改革では「社会人=会社人」という設定が自明視されて、「何を学ぶか」ではなく「どんな能力を身に付けるか」に関心が移っています。大学教育のなかで「汎用的能力」を学生に身に付けさせなくてはならない、ということが何の疑問もなく主張されます。
あるいは、「キャリア」という言葉を冠する科目を作って、1年生から就職への準備をさせようという流れもあります。「就職活動を支援するためのレクチャーを開催しても、単位にしないと学生が集まらない。そうなると就職率が下がり、少子化の中で大学が潰れてしまう」というロジックで、「就職活動支援」や「汎用的能力育成」が大学教育に無批判に入ってきているのです。
施:ただ、企業がやってきたオン・ザ・ジョブ・トレーニングを大学がかわれるのかといったら、これは無理でしょう。ビジネスに必要な事務処理能力や交渉力といったさまざまな能力に欠けている大学の教員に、そんなことができるわけがない。
疑問の残るグローバル人材育成
佐藤:ヨーロッパの大学は、もともと教会と結び付いていましたので、「反世俗の砦」としての性格を持っている。ところが日本では、政府の視点に立つかぎり、大学は国の近代化という世俗的な目標の達成手段でした。
「グローバル人材を育成しろ」と命じたがるのも、その限りでは納得できる。今やグローバル化が国の目標になっていますからね。
藤本:大学におけるグローバル化の推進は、「スーパーグローバル大学」など一部の研究型大学の課題としてだけでなく、留学制度の強化、英語教育の強化などで、あらゆる大学の課題として強調されています。国策として「グローバル人材」の育成が進められているからです。
しかし「“国策”でグローバル人材を育成する」ということの意味は、どこまできちんと考えられているのでしょうか。たとえば、クリストファー・ラッシュに「エリートの反逆」という言葉がありますが、世界とつながっているという認識を持つ人は、国や地域的なコミュニティなどへの意識が希薄になりがちです。グローバルに活躍する人にとって「国家」がどのようなものなのか、考える必要があると思います。
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