国策でグローバル人材を育成するという矛盾 古典を学ぶことが「エリートの反逆」を防ぐ

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中野:そういう権威付けの歴史は、明治に始まったものではないかもしれません。ある研究書を読んで知ったのですが、荻生徂徠は『論語』を当時の中国語の口語として理解しようとしたそうです。

『論語』は本来、日常生活の中で孔子が弟子たちに話した内容をまとめたものなのに、日本ではそれを「子曰く」という、いかにも高尚な響きの漢文として読み、みんなで「ははあ」とありがたがっていた。徂徠はそれではいけないと考えたわけですが、海の向こうから来たものを神格化し、わざわざ小難しい訳し方をして崇め奉るという伝統は、江戸時代からあったわけですね。

:エリートの権威主義の弊害は大学だけではありません。日本では組織の長や肩書を持った人よりも現場のスタッフのほうが優秀だという現象が普通に見られます。特に東日本大震災のときなどは、現場で作業している人のほうが優秀で責任感も強いという場面を繰り返し見たと思います。「偉い」とされる人たちが権威主義によってスポイルされ無能になっていくという構図が、社会全体にあるのかもしれません。

大学改革はなぜ始まったのか

中野:大学の先生は自分でもよくわかっていないことを、宗教の秘儀のごとくもったいぶって伝えてきた。多くの学生たちにとってはこの儀式は耐え難くて、「大学では何の役にも立たないことを無理にやらされた。本当に意味のないところだ」という思いが強く残っている。そういう大学に怒りを感じている人は、官僚の中にも結構いるように思いますよ。「何も役に立たないことばかり教えて、俺たちの4年間を無駄にさせやがって」と思っている。

学生は学生で問題で、僕の頃は「大学は遊ぶところだ」というのが常識で、ほとんどの学生がろくに勉強していなかった。

佐藤 健志(さとう けんじ)/評論家、作家。1966年、東京都生まれ。東京大学教養学部卒業。戯曲『ブロークン・ジャパニーズ』(1989年)で文化庁舞台芸術創作奨励特別賞を受賞。『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』(文藝春秋、1992年)以来、作劇術の観点から時代や社会を分析する独自の評論活動を展開。主な著書に『未来喪失』(東洋経済新報社)、『夢見られた近代』(NTT出版)、『震災ゴジラ! 戦後は破局へと回帰する』(VNC)、『右の売国、左の亡国』(アスペクト)など(写真:佐藤 健志)

:当時は企業の側も、「大学では部活か何かに打ち込んで、体力と協調性を身に付けていらっしゃい。変に勉強して、おかしな思想にかぶれちゃいかんよ」といった感じでしたね。仕事は会社に入ってからオン・ザ・ジョブ・トレーニングで覚えればいい、と。

藤本:私が学部生の頃も、経済学部は「パラダイス経済」と呼ばれていて、1・2・3回生は遊びに遊んで、4回生になって1年で4年分の単位をそろえて卒業することができていました。そうして遊んだ学生たちが、大手の銀行などに就職していくという状況です。そもそも、社会に出てから役に立つ実践力を教育することなど大学に求められていなかったわけです。

中野:80年代までのある意味で牧歌的な状況が、なぜ90年代に入って大きく変わったのかと考えると、冷戦終結と並んで影響が大きかったのがバブル崩壊でしょう。

景気が悪化して財政赤字がひどくなり、教育予算もカットされ、「これまでどおりのカネはやれない。自分で稼げ」という圧力が大学にきた。オン・ザ・ジョブ・トレーニングをやっていた企業のほうも、社員教育にコストをかける余裕がなくなってしまった。それで「大学でやってくれ」と、大学にその機能を押しつけた。

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