「直木賞」の過剰評価にイラッとする人の目線 むしろ受賞後こそ作家の力量が試される
ほかの賞にも、即物的なメリットがないわけではない。たとえば、全国書店員の一部の投票で決まる「本屋大賞」の場合、いちばんの特徴は、とにかく受賞作が売れることだ。受賞作の部数を見ると、直木賞ではこの30年来ずっと、10万部程度が目安となって推移しているが、第1回本屋大賞を受賞した2004年の小川洋子『博士の愛した数式』は、いきなり20万部超え。以来、その点では確実に直木賞を凌駕している。
しかし、ほかに及ぼす波及効果まで含めると、直木賞ほどのものはない。ほかの賞は、いわずもがなだろう。
直木賞は「賞レース」として見ないほうがいい
はたして直木賞は騒ぐほどの文学賞なのか。……残念ながら、答えはノーだ。いまの直木賞は、現に活躍中の作家から選ばれる。今回候補に挙がっている上田早夕里、木下昌輝、窪美澄、島本理生、本城雅人、湊かなえの6人にしても、書店に行けば、彼らがこれまで書いてきた作品を何作も手にすることができる。要するに、選考によって新しい才能が発掘されるわけではない。
また、期間中の最も優れた作品を選出することを目指している賞でもない。当落をめぐって、「直接の関係がない野次馬がむやみに騒ぎ立てるのはやめたほうがいい」という先人たちの意見は正しいし、私も心から賛同する。
「いや、お前も騒ぎに荷担している野次馬の一人ではないか」と突っ込まれることを覚悟しながら、では、なぜこういう記事を書くのか。それは、「有名だから」「みんながチヤホヤするから」「ニュースになっているから」という理由だけで文学賞に向き合うことに、強烈な抵抗感があるからだ。
それでは、「やたらに注目される」という虚飾を剥いだとき、直木賞にどんな特徴が残るのだろう。創設以来、この賞では187人の受賞者が生まれ、受賞の感想、その後の実感、周辺にいた編集者たちの回想などが大量に書き残されてきた。それらを総合してみると、浮かび上がる姿は、単純にして明快。この賞はゴールとして設定されたものではなく、受賞者が新しい道を踏み出すためのスタートである、ということしかない。
受賞者だけに限らない。受賞できなかったとしても、実力に差があるわけではない候補者たちが、直木賞から先、どのような小説を書いていくか。5年、10年(もしくは何十年)という中・長期的なスパンを見据えて、この文学賞は行われている。
たとえば10年前、直木賞では井上荒野、荻原浩、新野剛志、三崎亜記、山本兼一、和田竜の6人が候補になった。特に盛り上がったとは言えない回だが、その後みな、多くの作品を書いている。そのなかに、自分の気に入る作品があるかもしれない。20年前、30年前の候補者でもいい。何人かの小説を読み比べるのも面白い。読書の幅が一気に広がる。
そうやって活用すると、直木賞は何倍にも楽しめる。目の前の受賞作だけに、慌てて飛びつく理由は、どこにもない。
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