「Sも、そういう家で育ったの?」
あるときふと疑問に思い、私はSに尋ねた。すると、それまで饒舌だったSが急に口を閉じ、やや間をおいてから言った。
「それが、私の家は、全然そうじゃなかったんだよね」
Sの育った家庭は、Sが今築いている家庭とは真逆のものだったのだという。
なんでもSは幼い頃から、自分の家にいることができなかった。というのも、お父さんが仕事に出ている昼間、お母さんはある理由からいつもSに、外に出ているようにと命じていたからだ。子ども時代のSは仕方なく、家の近所をあてもなくぶらぶらと歩いていたのだという。ときには夜になっても家に入れないままのことだってあった。当然お腹が空くけれど、ご飯を食べることもできない。そんな様子を見かねた近所のおばさんが、あるときからSを自宅に招き入れ、ことあるごとにご飯を食べさせてくれるようになった。
「だからね、私は近所のおばさんに育ててもらったようなものなんだよね」と、Sは言った。
寂しいのは誰なのか
血の繋がった家族があるのに、家の中に居場所を持てなかった幼い日のSのことを考えた。出会ってからずっと、Sの天賦の才だと私が思い込んでいたものは、もしかすると幼い彼女が生活の中でやむを得ず身に付けた、生き延びるための能力だったのだろうか。
……仮にもしそうだったとしても、あたかも上から見下ろすように彼女の生い立ちに同情を寄せ、胸を痛めるに足るほど、私たちは果たして強い存在だろうか。私や、彼女にオムレツ作りのコツを教えたおじさんや、幼い日の彼女にご飯を食べさせた近所のおばさん。これまで彼女を“お客さん”として迎え入れてきた者たちは、ただ一方的に、弱い彼女を守り、助け続けてきたのだろうか。いや、決してそうではないだろう。
自分の大切にしているものが、心ない誰かの言動に容易く脅かされないように、私たちは皆、心の中に大なり小なりさまざまな“戸”を立てている。戸は、家の内と外を、私と他者とを、明確に隔てる。
戸の内側にさえいれば、私たちは何を恐れることもなく、概ね安心して過ごすことができる。ところがそうして得られる安心は、いつだって孤独と隣り合わせだ。だからこそ私たちは、自分でも知らないうちに、どこかで待ち望んでいるのではないだろか。目の前の戸をやすやすと開け放ち、勇敢にこちら側に踏み入ってきてくれる他者の存在を。戸の内側に広がる孤独に終止符を打ってくれる、ヒーローのような誰かを。
“お客さん”としてやってきて、“お客さん”でない者として受け入れられるS。誰かの戸の内側で「よその人」でないのであれば、それはつまり「内の人」なのであって、普通なら閉じられたプライベートな場所に、お互いのいるべき場所を用意し合う関係性。それはもう十分に私達が思い描く家族の姿そのものではないだろうか。
たとえ家を共にしていなくても、血の繋がりなんてなくても、家族になることはできる。一歩踏み込んでくれる誰かを切望している人は、世の中にたくさんいる。そんなことを、Sは私に教えてくれたのだ。
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