円盤に愛された28歳日本代表女子の負けん気 アルティメットは単なるフリスビーにあらず

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さらに、バスケットボールの魅力に取りつかれた中学・高校では、ただ、ひたむきにバスケットボールに取り組んだ。高校生の頃に目標としていたインターハイには出場することができず、初めてスポーツで大きな挫折を経験した。しばらく虚無感に襲われたが、同時に、やりきったという感覚があり、バスケットボールからは離れることを決めた。

そんな田村がアルティメットに出会ったのは大学1年のときだった。

ケガを恐れずにダイビングキャッチを決める田村選手(筆者撮影)

大学入学当初、田村には、これといって取り組んでみたいことがなかった。

もともと人見知りな性格のため、なかなか新しい友達もできず、高校時代から仲が良かった友達に付き添って、初めて見学したのがアルティメット部だった。

バスケットボールに似た特性を感じつつも、それ以上に新しさを感じ、入部することになった。

そこで初めて投げたフライングディスク。初めて持った円盤は、思っていたより少し重く、少し大きく、何より自分が意図したようには飛んでくれなかった。その難しさが田村の心を刺激した。

「初めは、まったくディスクを投げられなかったんです。思うように飛んでくれなかったから、夢中になった。あの時、簡単に投げることができていたら、きっとアルティメットはやってなかったと思います。」

アルティメットの魅力に引き込まれていった田村が、その才能を発揮するのに、さほど時間はかからなかった。

幼少期からさまざまなスポーツ環境の中で培われてきた適応能力を武器に、メキメキと上達し、しだいに所属チーム内での存在感を増していった。

結果論ではあるが、幼い頃からさまざまな競技を経験してきたその多様性が、田村のアルティメットという競技に対する適応能力を育んでいたのかもしれない。

さらなる飛躍につながったキャプテンという役割

弱小だった大学のチームは、徐々に真剣に取り組むチームに変わっていき、大学4年の時には、全国大会で6位の成績を収めるまでに成長した。チームを牽引した田村は、その活躍が評価され、2012年に行われた世界大会の日本代表選考会に呼ばれる。

だが、自分はその場にふさわしくないと感じた田村は、自ら代表を辞退してしまう。一生懸命にプレーしてはいたが、世界と戦う覚悟も、競技に対する想いもまだまだ足りないと感じた。自分に自信が持てなかった。

そんな田村に飛躍が訪れたのは、社会人になってからだった。

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