日本の独自文化「盆栽」と「緊縛」の密接な関係 「支配−被支配」の深い精神性を考える
緊縛と官能が直截的に結びつけられるようになったのは、明治生まれの画家・伊藤晴雨に因るところが大きい。伊藤晴雨は、月岡芳年の影響を受け、責め絵に官能を見出し、責め絵の制作と責めの研究に生涯を懸ける。
二番目の妻キセ子を雪の中で全裸にした代表作『雪責め』、『臨月の夫人の逆さ吊り写真』に因って緊縛の官能性を世に知らしめた。以降、カストリ雑誌、SM雑誌の興隆や、団鬼六の小説『花と蛇』の人気に沿うように、緊縛は官能の一行為であるという認識が広まっていく。緊縛も盆栽も、日本独自の美意識を源流に持つものなのだ。
「支配―被支配」の繫がり
盆栽と緊縛の近似はさらに深い。盆栽同様に、緊縛もまた、縛る者と縛られる者の共同作業であり、両者の意識が溶け合う行為だ。支配―被支配の関係は共依存にあり、対象がなくては成り立たず、ただ一方的に縛る者が縛られる者を痛めつける行為ではない。『緊縛の文化史』は、「緊縛は、SM行為のなかでも最も情愛深く最も官能的な体験であり得るし、そうあるべき行為だ」と記す。さらに、同書の中で、緊縛師の雪村春樹は、「縛ることは女性に奉仕することだ」という。縄で愛や感情を表現するのだ。
盆栽が植物の性質や癖を知り尽くさなくてはいけないのと同様に、緊縛は相手の性質をよく知ったうえで、肉体、そして精神をも縛らなければならない行為だ。相手の美しさを最大限に引き出し、美しい姿形にしてこその緊縛である。そして、盆栽が植物の自立性を阻んでいるのと同様に、緊縛もまた、身体の自由を奪い、拘束することで、意志を剝奪し、身体を道具化している。
しかし結論を急いではいけない。緊縛は、身体を道具化する虐待行為だと非難されることもあるが、そうではない。本来、道具化するべきではない愛すべき対象の自由を奪うこと、奪われることに喜びと官能が生まれるのである。縛る者―縛られる者に精神の繋がりがなければ、緊縛からは何の意味も生じない。逆説的に、するべきでない相手にするからこそ、禁止の侵犯―官能が生まれるのだ。
緊縛師に縛られる時に、拘束されているという気持ちよりも、縄に抱かれている感覚が呼び覚まされ、心が安らぐ。抱くこと・愛することと、縛ることの差異は、紙一重なのだと思う。愛と支配と暴力が兄弟であるように。
盆栽は、植物を支配することから生まれる。愛なきゆえではなく、愛を持って侵犯することから美が生まれる。盆栽も、緊縛も、どちらも弄べない命を弄ぶ行為であり、だからこそ、官能的で、芸術的なのだ。
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