日本の独自文化「盆栽」と「緊縛」の密接な関係  「支配−被支配」の深い精神性を考える

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このような歴史を持つ盆栽だが、そもそも盆栽と園芸は、同じものではない。植物の状態を良好にして、植物そのものを愛でるのが園芸であるのに対して、盆栽は、草木を用いながら、限られた鉢の中でその美を表現するものだ。

江戸時代から続く「清香園」の四代目園主・山田登美男は、「盆栽とは、連想の遊びです。見て、四季折々の情感を感じ、日本の風景に思いを馳せるものです」と語る。盆栽研究家で編集者の山本順三は著書『まめぼん―世界で一番ちいさな盆栽』(平凡社)の中で、「盆栽というものは、絵筆の代わりにハサミや針金を使って描いた『生きた風景画』」だと述べている。

盆栽の基本は、樹を育て、仕立て、美しさや生命力を最大限に引き出すことにある。木の性質や癖を知り、より美しい形を探り出し、その美しさを維持し続ける。目指す美のために、不要な枝を落とし、姿を整えるために、走り根や底根を切り詰め、針金で枝を引き絞り、葉の勢いを剪定で揃え、様々な技巧を凝らす。

盆栽を良い形にするには、その木が持つ性質や個性をよく知らなければならず、人間が施す技巧を木自身が内側に浸透させていなければならない。そして、木は自ずと育っていくものゆえ、盆栽とは、人間と木の共同作業なのだ。個性を無視し、不自然に枝を曲げ、恣意的に仕立てても、美しい形にはならない。まず木の存在がなくては始まらない。木という存在と人間の意識が溶け合う行為なのだ。

だから手入れをしなくなった盆栽は、その姿を維持することができず、樹形が乱れていく。乱れた樹形を見て、周りの人間は、盆栽は育てたその人自身であり、作品だったことを知るのだ。また盆栽は、景色を表す盆景とは違い、もっと大きく自然を連想させる。行間から溢れる情緒、イマジネーション、余韻を感じさせる文学に近い性質を持っている。

緊縛の美意識

他方、盆栽には、植物という生命が人間によって道具化されている、つまり素材になっているという事実がある。どれほど美しい形、良い状態になっていようとも、植物としての自立性が阻まれていることは否定できない。

盆栽を巡る植物と人間の関係は、依存的な繋がり、支配―被支配の構造であり、その精神性はサド・マゾ的だと思う。盆栽が支配階級に好まれてきたのも、その性質に因るものだと推測できる。フランスの思想家バタイユは、禁止の侵犯にこそエロティシズムがあるといったが、生命が持つ自立性を奪うことも、その一つだろう。

盆栽の精神性と大きく重なるのは緊縛だ。緊縛とは、縄を用いたボンデージで、起源は、江戸時代の捕縛術に遡る。縄や紐で敵や罪人を拘束する捕縛術は「捕縄」と「本縄」に分けられる。捕縄は、犯人を拿捕する時に用いられ、本縄は、麻縄を用い、囚人を取り調べの場に送る時や、重罪人を衆人の前で晒しものにする際に用いられた。つまり、見せる要素が強いものであった。

『緊縛の文化史』(マスター〝K〟著、山本規雄訳、すいれん舎)には、『与力・同心・十手捕縄』(板津安彦著、新人物往来社)における本縄の定法が引用されている。「1、縄ぬけ出来ぬこと 2、縄の掛け方が見破られないこと 3、長時間縛っておいても、神経血管を痛めぬこと 4、見た目に美しいこと」。罪人を縛りあげる際に美観が重要視されたことがわかる。武士の美意識によって形成された捕縛術は、歌舞伎の演目になり、月岡芳年や歌川国貞などの浮世絵の題材ともなった。

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