「ごぼうが少し焦げてしまったに、スープが苦くない?」
“〜に”、というのは彼女がよく使う地元の方言で“〜ので”、という意味らしい。照れたように笑いながらYが言う。
自分で作ったごぼう蕎麦を無邪気に口に運ぶYと、彼女の作った料理を食べる私。食べ物を食べるということは、明日も生きようとすること。食べ物を与えられるということは、どうか明日も生きてほしいという、誰かの切実な願いを受け止めることだ。
諦めが必要なときがある
ふと、私たちが初めて東京で会ったとき、まだようやく大学生になったばかりのYがあんなにも大人びて見えたのは、彼女が同世代よりも随分早く、諦めることを知っていたからなのかもしれないと思う。
物事には限界がある。どうにもならないときがある。諦めが必要なときがある。
子どもの間は、私たちの側にいる大人がいつだって、見えないところで私たちの願いを叶え続けてくれる。私たちが生きることに希望を持ち続けていられるよう、諦めなくて済むよう、あれこれ手を尽くしてくれる。なかにはいくら年齢を重ねても、運良くずっと子どものままでいられる人もいる。けれども基本的には大半の人が、長い人生の中でいつかはそんな後ろ盾を失って、一人きりで立ち向かう。
陰日向から自分に希望を見せてくれる人を失った状態を孤独と呼び、孤独に屈せず生き続けることで、私たちは大人になる。そして一度大人になってしまうと、二度と子どもに戻ることはできない。
蕎麦の湯気の向こうに座るYは以前よりずっと屈託なく笑うようになっていたけれど、彼女がとっくに孤独を知っている大人である事実は覆りようのないことだった。けれども、だからこそこのときの私は、彼女に心底救われたように感じた。こちら側の世界だってそんなに悪くないよと、Yは、まだおぼつかない私の足元に、柔らかな光を照らしてくれたのだ。
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