大谷翔平が今も大切にする、父の「3つの教え」 小学2年生で野球を始め、父が監督兼コーチに
2年生の終わり、野球を始める
翔平が野球チームのユニフォームに袖を通し、白球を追いかけ始めたのは小学3年生に上がる直前の雪解け間近な頃だった。その前年、2年生の秋頃に地元にある硬式リトルリーグのチームへ見学に行ったのがきっかけだった。厚みのある父の手を小さな手でギュッと握りしめて向かったであろう野球の体験会だ。
母・加代子さんの友人の息子がすでにそのチームに入部していたこともあり、本格的に野球を始めることを決めた。入部前から父とはよくキャッチボールをしていた。野球にのめり込むまで、さほど時間は必要ではなかった。
チームの監督も務めた父・徹さんは当時をこう振り返る。
「翔平と7つ違いの(長男の)龍太は、小さい頃は地元のスポーツ少年団で野球をやっていました。中学校でも軟式です。当時の私は、仕事が忙しくて龍太に対して手取り足取り野球を教えてあげられなかった。キャッチボールもなかなか付き合ってあげることができなかったんです。そのことが心のどこかに引っかかっていまして……。今でも龍太には申し訳なかったと思っているんです。そのこともあって、翔平には一生懸命に野球を教えてあげようかな、と。ゆくゆくは高校に上がれば硬球を使った野球になりますし、末っ子にははじめから硬式チームに入れて野球をやらせてみたいという思いがありました」
当時、自動車のボディメーカーに勤めていた徹さんは、昼夜二交代という勤務体制で日々の仕事に追われていた。夜から朝方まで続く夜勤の日も多かった。
それでも、週末ともなれば息子と一緒にグラウンドへ出掛けた。平日でも夜に仕事が入っていないときは、その時間を息子との野球の時間に費やした。
「たとえば夜勤の週になると土曜日の朝に自宅へ帰るわけですが、そのまま寝ずに野球の練習へ行っていました。それが生活スタイルになっていたので、当時はその状況を何とも思いませんでした。自分の睡眠を削ってでも、できるかぎりのことはしてあげたかった。翔平には悔いの残らないように野球をやらせたかったですし、私自身もそうしたかった」
若かりし頃の徹さんが神奈川県から地元の岩手に移り住んだのは、将来設計を見つめ直したためである。25歳で野球の現役を退き、20代後半を迎えたときだ。
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