51歳、栃木で「生姜の展示館」作った男の稼業 「岩下の新生姜」はだから若者にも愛される

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大学受験がないのがいいと思い、兄と同じ慶應義塾高校に進んだ。

高1の春、クラスメイトの持っていた慶應義塾普通部(中学校)の卒業アルバムを見せてもらっていたら、クラッシュのレア盤のジャケットを模写している人がいた。それを見て、

「似たような趣味のヤツがいるな……」

と思った。

クラスメイトから紹介されて模写をしていた生徒と会うことになった。彼は後に東京スカパラダイスオーケストラのドラマーとして活躍する青木達之さんだった。

彼に見せられた便箋には、彼が好きなバンドの名前がビッシリ羅列してあった。

「俺はこういうの好きだけど、お前はどう?」

そう得意げに言いたげだった。彼とはすぐに友達になった。

「何も持ってないんだけど、趣味の良さをアイデンティティにできちゃうような、そんな青春時代でしたね。それは大学まで続きました」

兄が家を継がなくなった

青木さんは自分でも演奏していたが、岩下社長はあくまで演奏はやらなかった。

「私は家を継ぐというのが既定路線になってましたからね。兄が家を継がなくなったので……」

岩下社長が高校2年のとき、兄は家を継がず、将来はエコノミストになりたいと宣言した。

経済学部ではトップクラスの優秀な学生で、卒業後は日本銀行に進んだ。当時の昭和的感覚では長男が家を継がないのは収まりが悪かったが、それでも日本銀行という異色な勤務先に進むなら仕方がないということになった。そして岩下社長にお鉢が回ってきた。

「しょうがないな~と受動的ですが受け入れました。まだ子供でしたし逃げられない感じでしたね。兄は結果的に京都大学の教授になって『エコノミストになる』という夢を叶えました。青木は彼が好きだったミュージシャンと相思相愛でガンガン共演していました。すごいですね。私はそういう『自分の道をガツガツと決めていく人たち』とは考え方が違いましたね」

大学3~4年の時は、経済学の勉強を頑張り、卒業後は住友銀行に就職した。

「ゼミ生のほとんどが金融機関に入る、そんな時代でした。家を継ぐことを念頭に置いての就職先でしたが、あまり深くは考えていませんでした」

銀行では4年間働いた。

その頃、岩下食品は関東を中心に「岩下の新生姜」のテレビCMを流しはじめた。

岩下社長は、

「これは話が変わってしまったな」

と思った。

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