小学生が着る「標準服」の"標準"とは何なのか かつては「洋装における標準」を指していた

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現在のように既製服が店頭で売られているような時代ではなかったため、洋服を着るとなると、専門店で仕立てるか、家で手作りするかの2択だった。さらに、洋服を作る場合は、どんな生地やデザインにするかをすべて家庭が考えなければならず、洋服選択の判断に迷う声が学校にも寄せられたようである。

そうした家庭からの悩みや要望を受け、児童が着用すべき「洋服の標準」を学校が示すようになっていった。

戦前の公立小では服装の統一は求められなかった

では、いつから一部地域の公立小学校で、揃いの標準服を着るようになったのか。

少なくとも戦前の公立小には、学校が一律の型の服装を制定したことはほぼなかった。なぜなら、義務教育の公立小には、富裕層から貧困層まで、さまざまな子どもたちが就学するからである。学校は家庭間の格差に配慮せざるをえず、服装を統一することよりも、すべての児童に国民教育を施すことを優先してきた。

当時、学校を統括していた文部省(現・文部科学省)の対応も同様である。文部省が初めて小学校児童の服装について統一的見解を示したのは、日清戦争が勃発した明治27(1894)年の「体育及び学校衛生に関する訓令」においてである。この訓令は、身体の発育期にある児童に活発な運動を推奨し、国民の健康な身体の育成を図ったものであるが、この中で児童の服装に「筒袖(筒のような形をした袖がついた着物)」の着用が奨励された。

特に和服の袖は丈が長く、腕まわりの動きを制限し、活発な運動を妨げると考えられたのである。この袖の改良は、新たに費用負担を強いるものではなく、手持ちの着物を仕立て直すことで対応できる内容であった。

明治期以降、中学校や一部の私立小では制服が採用されていたが、大正8(1919)年には物価の急激な高騰による生活難への対応から、文部省は中学校以下の児童・生徒の制服廃止の通牒を出した。理由は「一定ノ制服ヲ着用サセルコトハ父兄ノ負担ニ影響スルトコロガ多イ」からである。

昭和16(1941)年には戦時下における統制の関係で、男子は国民服、女子は「へちま衿」の制服に全国統一される。ただ、この通牒は中学校以上の生徒が対象。小学校児童に服装統一を求めたものではない。

つまり、戦前において文部省は小学校児童に制服を着せようとはしなかった。従って、小学校児童の服装に関する問題は、各学校の中で教師と保護者がかかわりながら、どのような服装が望ましいかが議論され、実践されてきたといえる。

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