アイマス最大の特徴は「プレーヤーがアイドル事務所のプロデューサーとしてアイドルを育成する」という仕組みだ。多くのアイドルと親しくはなるが、あくまで業務として。表立って恋人関係になることは難しい立場にある。この距離感がアイマス特有の魅力となっている。
その育ての親が、バンダイナムコエンターテインメント(以下バンナム)でシリーズの総合プロデューサーを務める坂上陽三氏だ(以下敬称略)。ファンの間からは「ヘンタイ」の愛称で親しまれ、ライブで登壇する際には「ヘンタイコール」が沸き起こる。
ゲーム内でアイドルの服として幼稚園児が着る服を配信し、それについて「自分の趣味」と発言したことが由来だ。当人は「コントグループのザ・ドリフターズが好きで、その中で赤ちゃんの格好をして行うコントがあった。”自分の趣味”というのはそれのことだったのだけれど、違う意味で定着してしまった(笑)」と話す。
そんな坂上だが、もともとアイドルに対して特別な思い入れがあるわけではなく、それどころかゲーム業界の人間ですらなかった。バンナムの前身であるナムコに入社する以前は映像プロダクションに所属し、カメラマンのアシスタントや音声の採録を行っていた。
転機は、ある日ふと見たドキュメンタリー番組。ボルネオチンパンジーが『パックマン』を楽しそうに遊んでいるシーンを見て衝撃を受けた。「ゲームのエンタメ性は猿でも楽しめるほど普遍的なのか、と金づちで打たれるような思いだった」と振り返る。
ゲーム業界への転身を決意したものの、ナムコに入ったのは偶然だった。コナミ(現コナミデジタルエンタテインメント)へ応募するつもりが、誤ってナムコを受けてしまったのである。ただ、当時好きだったアーケードゲームがナムコ製だったということもあり、あまりその点で悩むことはなかった。
1991年に入社した後は、バンナムを代表するシューティングゲーム『エースコンバット』シリーズの前身にあたる『エアーコンバット』や、初代プレイステーションの本体同時発売のレーシングゲーム『リッジレーサー』などの開発を行った。現在は開発人員が100人を超えることも珍しくないゲーム開発だが、当時は10人にも満たない人数。今では一般的になっているディレクターやプロデューサーといった役職も「当時はなかった」と話す。
アイマスの企画がスタートしたのは、坂上の入社からさらに10年ほど経った2000年代初頭。もともとはゲームセンターへの集客目的だったという。ちょうど携帯電話へのメルマガが登場してきた時期で、事務的な文章よりも女性キャラクターがメールを送ったほうがウケるのではないかというアイデアが出た。
当初はバレーボールゲームを想定
同時に、技術開発が進んでいたタッチパネルを使った対戦ゲームを作るという企画も上がっていた。これらのアイデアがアイマスの原点だ。ただ、その時点ではアイドルではなく、バレーボールといった対戦色の強いゲームだったという。そこから、「もう少し女の子ならではのゲームにしたほうが良いのでは」という声が上がり、「アイドルをプロデュースしてトップアイドルへと育成する」という現在のアイマスができあがった。
ゲームセンター向けから始まった一連のアイマス企画の中で、坂上がプロデューサーとしてかかわるようになったのは2007年に発売した家庭用ゲーム機向けの『THE IDOLM@STER』から。この頃から、ユーザーがアイマスを題材にした動画作品をニコニコ動画やユーチューブへアップする動きが活発化。単なるゲームではなく、1つのコンテンツとして認知されるようになる。2010年からは総合プロデューサーとして、アイマスシリーズ全体の統括をする立場になった。
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