中国の方針転換が世界中の反感を買っている 習近平氏が渡ろうとしている「危ない橋」
こうしている間にも、中国政府はたくみな舵取りを行っていた。数十年前にさかのぼるが、最初の経済改革を実施したとき、1997年に死去するまで中国の指導者を務めた鄧小平氏は、彼の後を継ぐ世代の指導者たちに対し、国際的に目立たぬようにするよう力説した。
「韜光養晦」(「自らの力を隠し蓄える」という意味であるが、一般的には「身を潜めて時を待て」と訳される)のスローガンを信奉し、これ見よがしに権力をひけらかすことのないよう訴えた。諸外国とわたり合える立場になるまでは、自国の努力を外国に気づかれないようにするためだった。
外交では明確な態度は避けながら、中国は2国間の焦点を通商と投資にしぼった。一貫して「ウィンウィン」の協力を呼びかけ、友好関係を築いていった。国連では、西側諸国の行為に関する争議についてはロシアに主導権を譲った。イラク戦争に対して国際社会が反発したときには、中国政府は国際社会に賛同する姿勢を見せ、2003年に中国と欧州間で戦略的パートナーシップを立ち上げることまでした。米国一極主義に対する第2の手段を意図したとも考えられる。
2009年には新興国のためのBRICs首脳会議を創設し、「中国は信頼できるパートナー」なのかどうか、といった議論が発展途上国にまで拡がりをみせた。増え続ける富と国力にもかかわらず、この時代を通じて、中国政府は、パートナー国の懐疑派を思い通りにさせないようにする意図が見透かされない程度の曖昧さを身につけていた。オーストラリアの鉱山から西洋の大学における孔子学院にまで、その論争は拡がり続けた。
過去5年ですべてが様変わり
ところが、過去5年で、ほぼすべてがあっという間にくつがえった。遠回しの外交的助言は注目を集める提言に変化した。戦略的曖昧性は、国際的な軍事拠点や大規模軍事訓練、派手な行進や隣国との睨み合いと引き換えに姿を消した。
国家が貸し付ける大規模なローンを背景として、中国企業は国際的な爆買いに走り、ニューヨークのウォルドルフ・アストリア・ホテルやゼネラル・エレクトリック(GE)、ボルボといった一連の有名ブランドを買い漁った。これにおそれをなした西側諸国の立法者の中には、買収されてしまうと貴重な商業資産が中国政府の影響下に置かれてしまうのではないかと心配する者もいた。
アフリカでも、中国からの出資はパートナーシップや投資を目的とするものとは言えず、むしろ資源が豊富な国々に対して中国政府が露骨な影響力を手に入れ、不当労働行為を持ち込もうとしているのではないかという懸念が拡がっている。
2017年後半に中国共産党での基盤を盤石にした後、習主席はこのような変革を加速させている。中国共産党中央統一戦線工作部は国外の大学で中国人留学生の振る舞いに対してガイドラインの適用を開始した。
カリフォルニア大学サンディエゴ校の中国人教授らの発言によると、9月には、同校がダライ・ラマを卒業式でのスピーチに招いた後、中国教育省の一部門が彼らの資金を凍結した。これは中国共産党の教義に反する考え方を抑制するために中国政府がとった手段の一つと解釈されている。