34歳でプロ野球を去る男が面した挫折と復活 一度は「戦力外」も味わった八木智哉の半生
まだ、野球がやりたい。自分はやれるはずだ。そんな思いを抱いている八木は、2014年に1回目の戦力外になった時と同じように、またトライアウトを受けるだろう、もしくは、海を渡り、多くの日本人選手が挑戦してきた壁に挑むだろう。誰もがそう思っていたはずだった。
ところが、迎えた2017年11月15日。木枯らしが吹きぬける広島・マツダスタジアム。自分の可能性を信じる男たち、夢を追いかけ続ける男たちが集うトライアウト会場――そこに八木の姿はなかった。
「あなたがやりたいようにやってほしい」――妻の知佳さんが、いつも八木にかけ続けた言葉だった。
知佳さんが、八木の決断に口出しをすることは、これまで一度たりともなかった。2回目の戦力外通告を受けるのと時を同じくして、実は八木は球団サイドからスカウトとしての才能を見出され、球団職員になるオファーを受けることになった。
「まだ野球をやりたいんだ……」
オファーを受けた直後、八木は知佳さんに電話をかけ、事の経緯を伝えていた。しかし、「ボロボロになるまで野球をやりたい」と思っていた八木は、帰宅して知佳さんの顔を見た瞬間、開口一番こう言ったのだった。「正直、まだ野球をやりたいんだ……」
「嫁はいつも通り、『自分がやりたいようにやって』という感じでしたね。僕は『ちょっと考えるわ』って言ったんですけど、当然すぐに答えが出るわけがなくて。考えることは同じなんですよ。でも、決断だけができなかった」
テレビをつけても、まったく頭になど入ってこなかった。音声も映像も、右から左に流れていった。リビングで横になっていても、一向に眠くなどならない。時間だけが、静かに過ぎていった。小さい頃から、野球とともに生きてきた。自分を表現する術が野球だった。
野球選手を辞めるということは、八木という存在そのものを揺るがすほどの大きな出来事なのだ。それだけではない。負ける悔しさ、勝つ喜び。支えてくれる人たちへの感謝。たくさんの想いが、胸をよぎり続けた−−「小さい頃から、野球だけだった」のだから。
その一方で、34歳の八木は、守るべき存在があることを悟っていた。もう野球だけではない。いや、野球以上に、大切なものが、八木の中にはあったのだろう。ほとんど眠らないまま迎えた翌朝、八木は球団に電話をかけた。「ありがたいお話、お受けします」と。
「僕は一度クビになった身。中日はクビになった僕を拾ってくれて、3年間やらせてくれたんです。本当に感謝しているんですよ。続けたい気持ちはあったけれど、潮時かなと。もし僕が独身だったら、100%この話を断って、野球を続けていたでしょうけどね。でも、僕にはなによりも大切な家族がいる。突っ走って、養えるお金がなくなれば家族に苦労をかけることになる。そう思ったら、答えはひとつでした。正直、未練はあったけど、もう今は前しか向いていないですよ」