34歳でプロ野球を去る男が面した挫折と復活 一度は「戦力外」も味わった八木智哉の半生

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しかし、人生は時に残酷だ。華々しいデビューを飾ったルーキーイヤーの最後に左肩を痛めた八木は、その影響で2007年のシーズン成績を大幅に落とすこととなる。シーズン成績、4勝6敗。2009年には9勝を挙げ、チームのリーグ優勝に貢献するも、自身の望むような成績を挙げられないシーズンが続いた。2013年には、交換トレードでオリックス・バファローズへ移籍。その後も、八木が過去の輝きを取り戻すことはなかった。

そして、2014年10月28日――。一度目の戦力外通告。

一度は戦力外通告を受け、現役引退の危機もあった

「小さい頃から野球しかやってこなかった自分が、プロに入ることができて、夢が叶って…。いずれクビになることなんて、最初からわかっていたことです。誰でも終わる時がくるんだから…」

現役で野球をやれる時間は、長い人生を彩るステージのひとつでしかない。そのことを悟っていた八木にとって、戦力外通告は晴天の霹靂というほどではなかったのかもしれない。心のどこかで、いつか戦力外通告を受ける日を想像していた八木は、TBS特番「プロ野球 戦力外通告」への出演を快諾し、密着取材を受けながらトライアウトに臨んだ。それはある強い想いからだった。

「実はクビになったら出たいと本気で思っていたんです。良い時だけじゃなく、ドン底の時も映像で残してもらえることで、人生でまた辛い時期にその映像を見て自分を奮い立たせる糧になる。ドラマチックに描いてもらえる機会なんて、そうそうないですからね」

新天地、名古屋での再出発

戦力外になってもなお、すべてを前向きに受け止めていた八木。迎えたトライアウトでも見事に結果を残し、中日ドラゴンズからのオファーを摑み取ったのだった。八木は愛する家族を残し、新天地、名古屋へと居を移すこととなった。

与えられた背番号は58。球団からの期待は、さほど大きいものではなかったのかもしれない。しかし、2015年のシーズンでは開幕からローテーションの一角を担うと、4月4日の対広島戦で、2012年7月26日以来となる982日ぶりの勝利を挙げた。八木は、再び輝きを取り戻したかのように見えた。

だが、その後の成績は振るわず、シーズンが終わってみれば4勝6敗、防御率3.92に沈む。新人王を獲得した2006年には、程遠い成績だった。そして、プロ12年目を迎えた今年、10月3日。八木は、二度目の戦力外通告を受けることとなる。

「自分はボロボロになるまで野球をやりたいと思っていました。本当に野球が好きなんです。まだ動けるのに野球をやらないなんて、考えたこともなかったんです。だから、2回クビになった日本ではなく、海外に行って挑戦したいと考えていたところでした。自分の可能性を諦めたくなんてなかった」

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