父親は工場労働者のようだったが、正確な雇用形態や給与はわからないと、ユウキさんは話す。ただ、物心ついたころから、「裕福な家ではない」と気が付いていた。中学、高校と続けたサッカー部で必要だったスパイクは、つま先がぱっくり割れてもガムテープで補強して使い続けたし、クーラーは真夏でも基本、使わない、風邪による熱くらいでは病院には行かない――。そうしたことが当たり前の子ども時代だった。
屈託のないユウキさんの性格もあるのだろう。貧しいことを恥ずかしいと思ったことはないという。ダブルという理由であからさまなイジメに遭ったこともない。クラスの学級委員長や部活のキャプテンを務めるなど学校生活や友人関係は人並み以上に充実していた。
一方で中学に上がる前の一時期、父親が終日家にいたことを覚えている。「今思うと、仕事をクビになったのではないか」とユウキさん。すぐに別の仕事が見つかったが、その後も何度か転職をしたようで、次第に早朝に家を出て、深夜に帰宅することが増えていった。父親が体調を崩したのは、こうした無理な働き方が常態化した中での出来事だった。
両親は何年も前に離婚、母親はオーバーステイ状態
がんと診断された父親は入院。家計は逼迫したものの、市役所に相談したところ、すぐに生活保護を受けられることになった。ところが、その手続きの中で、両親がもう何年も前に離婚していることが判明。さらに母親はオーバーステイ状態で、生活保護の受給対象にならないことがわかったのだ。
「びっくりしました。母親は、僕や弟が嫌いなタイ料理を父親が好きだからという理由でよく作っていて、普通に仲のよい両親でした。昔、何かの理由で喧嘩をしたときに勢いで籍を抜き、そのままにしてしまったみたいなんです。2人とも頑固なところがあるから……」。ユウキさんの説明によると、在留期間の更新手続きなどは、日本語をうまく書けない母親の代わりに父親が行っていたが、離婚後はそれも放置してしまった。日本人の配偶者としての暮らしに実質的な変わりはなかったが、法的にオーバーステイ状態になってしまったようだという。
父親の入院後は、日本語が不慣れな母親に代わり、ユウキさんがあらゆる手続きをこなした。生活保護の申請、病院との交渉、自らの学費や翌年に高校入学を控えていた弟の入学金の減免に必要な書類の準備――。市役所の福祉担当者の間では、部活終わりの夕方、頻繁に制服姿で訪れる高校生はちょっとした有名人だった。また、両親はタイでの離婚手続きをしておらず、日本ですぐに再入籍することができなかったため、入国管理局での特別在留許可申請に伴う複雑な手続きもユウキさんが行ったという。
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