妻は「がんで死へ向かう夫」をどう見つめたか 現在進行形で進むノンフィクションの凄み

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植本の眼は、高性能のカメラレンズのように、日常の微細な部分までを照らし出す。それは普通の人が無意識のうちに「見ないようにしていること」まで炙り出してしまう。そうやって提示される事実を前にして、ぼくたちは時にたじろいでしまうのだ。

“年末年始は家で療養し、年明けに体力をつけてから手術らしい。家に石田さんが帰ってくると思うと、嬉しいというより憂鬱が先に立つ。わたしの仕事が増える。やはり引っ越さないと、この手狭な家では窮屈だ。何より、子どもとの三人暮らしに慣れてしまった。まだ先が見えない。心のどこかで、このまま石田さんは死ぬんだと思っていたんだな、と実感する。そう思うことで覚悟もできていたし、見通しもなんとなく立っていた。一人で働いて子どもを育てるしかないというプレッシャーに、時々発狂しそうになったが、発狂こそすれば子どもが育てられない。もう一人でやるしかないんだ、というところにいたのだ。どちらにしろ憂鬱だ”

病院からひさしぶりに家に帰ってくる夫。そんな夫を疎ましく思う気持ちが正直に綴られる。これを読んであなたは「ひどい」と感じるだろうか。だが長患いや要介護の家族を抱え、同じような思いが心をよぎったことがあるという人は多いはずだ。

他人よりも「見えすぎる眼」を持ち、そして嘘がつけない性格であることは、時に残酷な事実を自分自身に突きつけもする。

“石田さんは隣でずっと唸り続けている。(略)わたしは声をかけることもできず、石田さんの背中をさすることもできない。最近人肌が恋しいと思い続けていたが、もう相手は女性でも子どもでも猫でもいい、ただ触れたり触れられたりしたいだけなのだ、と思っていたのに、石田さんには一切触れられないことに気がついた。こんなにそばにいて、もしかしたら石田さんも触れられることを必要としているかもしれないのに、どうしてもわたしにはできない。そのことに気がついてしまい、自分で自分に愕然とした。石田さんには、できないのか、と”

苦しむ夫を傍らに、その夫との間に絶望的な距離が生じてしまっていることに気づく。なんと残酷なことだろう。

若い男と半日のデート

夫が入退院を繰り返す中、ある日植本は若い男に会いに行く。恋人ではない。会ったことはないが顔が好みだと思ったミュージシャンに「写真を撮らせて欲しい」といきなりDMを送ったのだ。

“今日わたしは男の人に会うことになっている。先々週から精神的に限界で、わたしのことを何も知らない人のところに行きたかった。もしかしたらその人は、わたしをなんらかの形で助けてくれるんじゃないかと、期待していたのだ”

吉祥寺界隈でのこの半日のデートはさながら短編小説のようだ。旦那さんがいるけど多分死ぬんだ、と打ち明ける植本の気持ちを、この青年は真っ直ぐに受け止める。たとえ親しい間柄でなくとも、ただ誰かと一緒にいるだけで、人は救われることがあるのだと気づかされる。

だがそれから間もなくECDの癌の転移が明らかになる。今年の6月13日(火)のことだ。この日は雨だった。

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