モバゲーを開発した天才エンジニアの突破力 DeNA、川崎修平氏が明かす「モノづくりの壁」

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株式会社ディー・エヌ・エー 取締役 川崎修平氏 1975年生まれ。早稲田大学大学院に在学中、コンテンツマネジメントシステム等を独力で開発。東京大学大学院の博士課程に在学中の2002年より、ディー・エヌ・エーにアルバイト入社し、04年には正社員となった。その直後、『モバオク』『ポケットアフィリエイト』『モバゲータウン』を立て続けに開発。規格外の発想力・開発力・スピードを示したことから社内はもちろん、社外でも天才エンジニアとしてメディアに紹介されるようになった。その後もディー・エヌ・エーが展開する多様なサービスの開発・運用に携わり、07年、取締役に就任

アイデアが出てくるまではジャンプ読んだり、ひたすらゲームをしていたり。そんな様子だから、考えているように見えなかったかもしれないけれど、ちゃんと頭の中では思い悩んで相当苦しんでいました。

その代わり、「そうだ!」となってからは速いんです。さっきも言ったように「早くみんなを喜ばせたい」と思うので、手はバンバン速く動くし、早々に大まかな形を仕上げ、その上で、最後に残した時間で「ここはこうしよう」と細かな改善を加えていくスタイルで、完成までのステップを楽しんでいました。

当時は、とかく開発期間の短さがクローズアップされて注目を集めましたが、ものすごく生みの苦しみを味わっていたし、ヒットを生み出すことが狙ってできるようなものではないことは自分が一番よく分かっていました。

実際、その後数年間は、ヒットサービス開発者という実績がプレッシャーとして重くのしかかるようにもなっていたんです。次も、とやはり周囲は皆期待しますから、変なモノは作れない、と動きにくくなりました。毎回ホームランを打てるはずもないのに。

そして、Mobageも右肩上がり一直線の時期を過ぎ、会社側から「原因を突き止めて復活させてほしい」と言われたけれど、データを見てもこれだという策が浮かばない。現状打破のために皆でいろいろな取り組みをしていったけれど、結果につながらないジレンマに陥っていました。

僕自身もコミュニティー内のゲームを作ったり、さまざまなモノづくりをしていったけれど、以前はいつも到達していた「これだ!」という確信に至るレベルにはなかなか届かない。それでもビジネスだし、数字を作らなければいけないから、新しいサービスをリリースしましたが、大幅なV字回復にはならなかった。

もともと、エンジニアの仕事は8割がツラくて面倒なもので、残りの2割が最高に楽しいからツラい仕事もできるんだと思っていましたが、この頃、改めて「エンジニアの仕事って、ツラいことが多いなぁ」と感じていました。

そして、もう一つ。何もないところから新しいものを生み出したり、めちゃめちゃ後ろの方から競争相手を一気に抜き去るような攻めの局面は、前だけ見てればいいのでやりやすいんです。でも今あるものを立て直すとか、守りに入った状況で動くことは本当に難しい。そういう発見もありました。

エンジニアならば誰でもそうなのかどうかは分からないけれども、少なくとも僕は自分がやりたいことがあって、それを最大化する時に力を発揮できるというか、そういうアタマの使い方をする人間なのだと思い知らされたんです。

僕にとっては立て直しを担うという仕事は、「やりたいこと」ありきでないので力のかけ方が違う。結果が出ないあせりは、納期が遅れているのと同じ状態です。どんどん自分の“関節”が固くなっていくのを感じていました。

迷走モードの中、CTOとして渡米した35歳。

なぜエンジニアをやっているのか?を問う日々

32歳になる年、取締役に就任し、35歳でCTOにもなったけれど、正直なところ自分はマネジメントには向いてません(笑)。

作りたいものを作って、みんなをハッピーにしたいのが僕だから、わざわざ誰かにモノづくりを委ねて、あげくの果てに「んー、なんか違うよね」となって、自分も相手もユーザーもハッピーになれないサービスをリリースするくらいなら、「自分でやります!」と手を挙げたい。そういう性分なんです。

その辺は、長い付き合いの守安(現・同社代表取締役社長兼CEO、2010年当時は取締役兼COO)も分かってくれていたし、僕も僕なりのやり方で使命を全うしようと思っていました。

そんな中、ディー・エヌ・エーのグローバル戦略の一環で、アメリカのngmoco社を子会社化したりしながら、Mobageの仕組みを世界に広めていくチャレンジをするにあたり、海外拠点の組織づくりがミッションとして課せられ、CTOを務めることになりました。外国人エンジニアを取りまとめていくには、ヒットサービスを生んだ実績を持つ僕のような存在がアイコンとして必要だったんですね。

裏話を話すと、本当に突然、英語も話せないのに「はい、明日からアメリカ行って」みたいなオファーだったんですが(笑)、半年間という任期の中で自分にできることをやろうと、あえて苦手なこともチャレンジしてみようと思って行ったんです。

とはいえ、自分自身の適性の壁というものは、そう簡単に超えられるものでもない。なかなか結果が付いてこない中で、次第に自分の能力では解決できる気がしない壁の存在を強く感じるようになりました。

次ページ日本に戻ってきて開発したもの
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